In the Air

 屍肉をついばむカラス。散乱する死体。古ぼけたピアノ。
 あらゆるものが乾ききった酒場。そこで培った記憶も、思いも、荒野のかなたに消えた。ここで得た明るい記憶と言えば父親に機械の扱いを教わっていた時ぐらいなものだ。今ではそれも朧げにしか思い出せない。
 この西部にはロクなことがない――そこに転がっている、かつて人間だった者たちは口々にそう言っていた。だが、ここを離れて行くアテなどありはしない。明日の金どころか飯や水に困るような奴らがどうやって離れられるというのだろう。
 なにもない。ここにあるのは、飢えた理想と死の匂いだけだ。
 それはエンティティが俺がここに連れてきたとて同じこと。
 夜毎の儀式。止まない悲鳴。絶望に満ちた顔。血と鉄。そう、ここにも何もない。
 俺の中にはもう、何も残されてはいなかった。

 酒場の入り口に立つと、奥から何かが落ちる音がする。向かえば、バーカウンターの上から酒瓶が一つ、床に転がり落ちていった。ここにあるのは死体だけだ。死体がものを動かすはずがない。とするならここにいるのは――

「未登録名前」

 声をかけてやると、バーカウンターに伏していた女が顔を上げた。その頬は赤く色づいている。

「何か用」

 眉間にしわを寄せながら、片手に握っていた酒瓶をドンとカウンターの上に置いた。すっかり空になっているらしい空き瓶が大きく揺れる。

「自分の家で呑んだくれている奴がいたらいい気はしないだろう」

「うそ。自分の家だなんて思ってないくせに」

 そう言うと、未登録名前は喉が逸るほど一気に酒を飲んだ。ウィスキーの香りが俄かに強まり、無人の酒場に広がって行く。
 俺は、椅子を引き、未登録名前と一席離れて座った。
 いつもの光景だった。未登録名前は、何かの拍子にここへやって来ては酒を飲み、幾つか取り留めのない話をしては帰って行く。
 いつ頃始まったのかも覚えていない。ただ、毎度浮かない顔をしているのは確かだ。
 詮索はしない。する必要がない。俺たちの間には空気が横たわるように、相手がそこにいるという事実しかないからだ。
 俺はずっと、そう言い聞かせている。

 手近な瓶を取り、グラスに注いだ。不思議なもので、この酒場にある酒をいくら消費してもなくならない。おそらくエンティティの力なのだろうが、タダ酒を飲めるというのは有り難い話だ。まぁ、飲んだものが身になっている感覚もしないが。
 ごくりと酒を飲み込んだ時、ふと未登録名前の視線に気づく。頬杖を付き、じっとこちらを見つめていた。その顔は先程よりもだいぶ赤く、目もどろりとしている。

「深酒とは珍しいな」

「飲みたい気分だったのー」

 もはや呂律も怪しいというのに、未登録名前は空になったグラスにまた酒を注いだ。

「その辺にしておけよ」

 止めてやる義理はないが、ここで吐かれたりするのは面倒だ。

「なんで、普段そんなこと言わないのに」

「住処を汚されんのが嫌なんでな」

「心配してくれてるのかと思ったのに」

「するか。もう帰れ」

「じゃあ、」

 かたん、グラスが置かれる。

「慰めてよ私のこと」

 何を指す言葉か、一瞬理解できなかった。

「お願い。苦しいの。想い続けるのが苦しい。もう届かないのに、届かないって分かってるのに」

 腹の底から、湧き上がるような熱を感じる。長らく忘れていた感覚だった。ベイショアを殺し、果たされた復讐の先にあったのは虚無だった。俺には何も残されてはいない、そう思っていたのに。
 思い出させたのは、未登録名前だった。それこそいつから始まったのかは分からない。気がついたら、俺の頭を常にこいつが占めている。
 知りたくなかった、思い出したくなかった、なのに、かなたに消えたはずの感情がこんなにも蘇る。

「お願い」

 未登録名前が、俺との距離を詰める。身を寄せて、震える声でそう言った。

 ――わざわざ取っていた距離を踏み越えたのは、お前のほうだ。

 俺は酒を飲み干すと、未登録名前の腕を強く引いた。

「後悔するなよ、」

 それは誰に向けていた言葉だったのだろう。
 考える暇もなく、俺たちは互いの呼吸をこの干からびた空気の中に混ぜ込んだ。