はぁ、ひっ、は、は、
走る男の息は乱れに乱れ、目はぎらぎらと血走りながら涙をこぼす。満月は鬱蒼とした木々に隠れてしまい、眼前の闇を照らすものは何もない。こうなってしまえば頼れるのは音だけだ。けたたましいモーター音と、大きな男の足音から遠ざかるべく、男は夜の森をひたすらに走った。
「わあ!」
甲高い女の声。驚いた男は躓きそうになるのをなんとか堪えた。目を凝らせばほんの一筋月明かりが差し込み、相手の姿を浮かびあげる。
10代くらいの少女だった。大きな花柄のワンピースを着て、ごしごしと目を擦ってから不思議そうに男を覗き込む。
「どうしたの?」
男ははっとして少女の肩を掴んだ。
「き、きみ!こんなところにいては危険だ!すぐに逃げ――いや、きみの家はどこにある?すぐに警察に連絡を!」
「けいさつ?」
「恐ろしい殺人鬼がいるんだ!僕の友達を次々……」
「ふうん。でも、もうおしまいじゃないかなぁ」
「は……」
男が息を吸った瞬間、強烈な機械音と共に男の首が吹き飛んだ。男の首は地面に落ちると、呆然とした顔で何度か瞬きをしてから動かなくなった。胴体からは噴水のように血が吹き出し、ぐらりと傾いで少女にもたれかかるところを、がしりと別の腕が掴んで横に倒した。少女は頬に服に返り血を浴びるが、口元に手を当てておかしそうに笑った。
「わたしに触っちゃ、ダメなのよ。わたしを触っていいのはババちゃんだけだもの」
ね、と少女が顔を上げると、暗闇からぬうと大男が現れる。黄色いエプロンにはいくつもの血が染み込み、片手には鮮血が滴るチェーンソーが握られて、顔には人皮で出来たマスクが貼り付けられている。大男は興奮した様子で呻き声を上げながら肩を上下させ、倒れた男を睨みつけていた。
「ごめんねババちゃん。ちゃんと洗い流すから」
少女が眉を寄せて謝ると、ババと呼ばれた男は幾分気配を柔らかくしてコクリと頷いた。それから男の胴体を担ぎあげると、何か考えるそぶりを見せた。少女はババの意図を読んで、転がっていた男の首をワンピースの裾に乗せて持ち上げる。それを見たババが少し慌てた様子を見せたので、少女は少し困ったように笑った。
「でも、こうしないと『獲物』が全部運べないから……そうだ」
少女はババにそっと寄り添い、
「汚くなったトコロ、ババちゃんが洗ってよ。頭のてっぺんからつま先まで。いっぱいいっぱい、ババちゃんが『触ってくれたら』大丈夫でしょう?」
ババはさっと身を固くし、ぎこちなく呻いたあと、ためらいがちに何度か頷いた。それを見て、少女は目を細くして口角を持ち上げた。
頭上の満月は、ほんの少し、傾いでいる。