初めは単なる好奇心だった、と言ったら、あんたは怒るかな。それとも笑うか。今となっちゃ、確かめる意味はないんだが。それでも俺はあんたの横顔を見た時からずっと気になっていたんだよ。張見世の格子窓、そこから悩ましげな視線を送る女たちの中にあんたはいなかった。座敷の奥で一人だけ、外方を向いて気怠げに頬杖を付いていた。そう、その時の横顔だ。だから俺はあんたを指名した。
「もの好きね。あたしを指名するなんて」
未登録名前、と名乗った。遊女としては些か歳が過ぎているのだろうが、艶のある口調と所作は熟れた女の色香を纏っていた。確かに女の言うとおり、その手の好事家ならば喜んで手を出すだろう容貌をしていた。だが、俺は見目であんたを選んだんじゃない。
「あんたこそ張見世であんな態度取ってて、遣手婆に文句言われねぇのか?」
未登録名前は俺の手に収まった猪口に酌をしながら、ふふふと笑った。
「言われ慣れたわ。あたしにやる気がないのはもう嫌というほど分かっているのだし、今更よ」
「おいおい、客を相手にやる気がないとか言うなよ」
「あら、あなたもそれを分かって指名したのではないの?」
「……こりゃとんだくせ者だな」
注がれた酒を一口舐める。口当たりは甘いのに、残る後味がぴりりと辛い。まるでこいつみたいだな、と、その時は思った。
「それで、」
未登録名前が俺の膝に手を乗せた。
「あなたは何が望みなの」
眦に引かれた薄紅が、揺らめく行燈の光に照らされる。薄暗いはずの部屋は、そこだけが妙に明るく感ぜられた。
俺は未登録名前の目をじっと見た。横顔ではなく、正面から見た未登録名前は、正しく遊女のそれだった。男を誘う緩やかな唇。着崩した胸元。少しずつ太ももを這う指先。――俺はもう気付いていたのかもしれない。
「あんたと酒が呑みたい」
ぽかん、と。
艶やかだった表情が瞬く間に気の抜けたものになる。
「は……ええ?」
「なんだ? 何か問題あんのか」
「いや……ない、けど……」
「けど、なんだよ」
「……そういうことするために、来たんじゃないの?」
「あー、まぁな。だが気が変わった」
「ええ……」
「俺はあんたの時間を買ったんだ。代金だって前払いしてる。なら、買った時間をどう使うかは俺次第だろ?」
そう言って聞かせると、未登録名前はそれでもなお不可解というように顔を顰めた。
「へんな人……」
「あんたに言われたかねぇな。あと俺ぁ槍だぜ」
「揚げ足取り……」
「んだとぉ?」
「うひゃあ!」
がしり、とその肩に腕を回した。抱き寄せるような優しいものではなく、野郎を担ぐときのような荒々しさで。
「遊女ってからにはそれなりに呑めるんだろう? ならとことん付き合ってもらおうか」
「はぁ……勝手ねえ、この槍は」
そう言うと未登録名前は俺の腕を鬱陶しそうに払い、自分の猪口を持ち出して銚子を傾ける。
「言やぁ注いでやるのによ」
「客に酌させるほど遊女辞めてないわよ」
「はは、そうかい」
「全く……」
これ見よがしにため息をついてはいるが、未登録名前の顔が微かに緩んだのを見逃さなかった。俺が刹那に心惹かれた、あの横顔と同じ表情だ。
ああ、そうだな。俺はあんたに惹かれていたんだろう。あの横顔を見た時からな。信じられねぇか? 日ノ本一たるこの槍が、たかだか遊女に一目惚れ、だとは。まぁ正直、俺も未だに実感はないがね。――いや、好きかどうかじゃない。あんたを一目見たときのあの感覚を、一目惚れなんていう俗っぽい言葉で片付けていいものかどうかだよ。あれはもっと……そうだな。今なら言えるが、運命だとか縁だとか、俺の中ではもっと重たいものだった。そのくらいの衝撃があったってことだ。……それにもっと早く気づいてやれれば良かったな。
それから俺たちは他愛無いやり取りをして、時間きっかりに店を出た。不思議な心地だったのを覚えている。本丸の奴らと宴会で呑む酒とも、万屋街にある馴染みの居酒屋で呑む酒とも違う。これはきっとあんたと呑む酒でしか味わえない心地なんだろう、そう思うと、次の休暇はいつだったかを自然と考えていた。
本丸に帰り着くと、だいぶ遅い時間の帰りだった。短刀のちびたちや就寝の早いものはもう寝付いているのだろう、玄関口をくぐっても辺りはしんと静まっている。なんとなく後ろめたさを覚え、そっと履き物を脱いでいつもより静かに廊下を進んだ。
「おや」
ひたり、と足が止まった。後ろから声をかけてきたのはこの本丸の主だった。湯浴みの帰りか、浴衣姿で肩にバスタオルを掛けている。
「遅かったね。今日はそんなに遠くまで飲み歩いていたのかい」
そう言って主はニコニコと笑う。還暦を幾つか過ぎた男だが、年寄りにありがちな横柄さは見えず誰にも分け隔てなく接する。しかし戦とあらば武人然とした姿勢で部隊を指揮する貫禄も持ち合わせ、そんな主を本丸の誰もが敬愛していた。無論のこと、俺もだ。この男は主と仰ぐに充分な力量を持っている。
「あー、ちょいとな。美味い酒があったもんだからつい呑み過ぎた」
「うん? お前が『呑み過ぎた』なんて言うとは、珍しいこともあるもんだ」
「……まぁ、そんな日もあらぁな」
主は、人をよく見ている。生来の気質か齢を重ねた経験からか、とかく他者の機微に聡く鋭い。主の前で嘘はつけない――そう言ったのは鶴丸だ。あの鶴丸国永にそこまで言わせるくらいの主だ、この時点で俺の様子が違うことに気付いていたのかも知れない。
「そうかい。まぁ、深酒にならないようにな」
それ以上追及されることはなく、主はからりと笑って自室へ向かった。その後ろ姿を見送って、ようやく自分が息を詰めていたことに気付いた。ふうと息を吐き出すと、先程までの不思議な――浮かれた心地から、両足が地面に降り立ったのを感じた。
あれは一期の夢だった。何の変哲もない日常に少しだけ与えられた非日常。俺の本分はこの本丸にあり、この身は主のために振るうべきものだ。だからあちらに囚われることなどあってはならない。俺はどこまでも『刀剣男士』なのだから。もうあの遊郭には行くまい――そう心に決めた。
なのに頭から離れないんだ。あんたの横顔が、声が。ずっと、ずっと。