「女」の名前を呼んだことはもちろんない。
知っていたのは偽名だけということもあったが、あいつの前で声を出すのは愚行以外のなにものでもなかったからだ。
同時に「女」から名前を呼ばれたこともなかった。
あいつは知っていたはずなのに。
なぜ、それをしなかったのか。
「女」は僕に執心していた。いかなる理由であれ。
……待て。
本当に、あいつは僕に執着していたのか?
「女」のほうから呼びつけられたことは?部屋に呼ばれたことは?全て大統領を通じてではなかったか?
分からない。分からなくなった。
執着、固執していたのは、本当は。
「僕はお前が、大嫌いなんだ」
堰を切ったように。
「顔も声も仕草も全て。殺したいほど憎らしい」
喋り続ける。
「殺したかった。ずっと殺してやりたかった。目的が達せられたときは嬉しく思った。思うはずだった。なのに今でも胸が苦しい。あのときからずっとだ。ずっと、ずっと!」
傍から見れば、ひどく滑稽な姿だったろう。
泣きながら女の首に手をかけて、慟哭している。
けれど、女はくすりとも笑わなかった。
それどころか目を細めて穏やかに、
「本当は優しいのね、あなた」
「何を……」
「でも、人の愛し方を知らない。だから歪んでしまったんだわ」
愛?愛だと?
そんなもの、僕にはない。必要ない。
だが僕の喉から反論する声は出なかった。
「あなたはその人のこと、愛してたのよ」
「僕が」
「あなたが」
「あの女を」
「その人を」
翳った月の、微かな光。
それに照らし出されたあの「女」の顔。
思い出した。
僕が引き金を引く瞬間に、「女」は。
笑っていた。
「本当に他人なんだな?」
「本当よ」
「実は双子だとか、姉妹だとかではなく」
「疑り深いわね」
しかし気を悪くしたというふうではなく、この状況を楽しんでいるかのようだった。
真昼の太陽が喫茶店のテラスに降り注ぎ、女の笑顔を照らしている。
それがとてもよく似合っているところを見ると、あの「女」とはやはり別人なのかと思わせた。
「僕はもう行く」
「あらそう。行ってらっしゃい」
「ああ」
代金をテーブルの上に置いて、次の仕事に向かう。
と、
「シャドウ」
「なんだ?」
「またね」
「また、な」
(今でも僕は探している)
(とっくに狂ったはずの答えを)