Section.05

Section.05

 女性と二人、並んで歩く。
 思った通り彼女の母親だった。これから見舞いに行く途中で、バスもそのために乗っていたのだという。
 娘は1ヶ月ほど前事故に遭い、それきり目覚めないのだという。つい先日まで救急病棟におり、状態がやや落ち着いたことから今日一般病棟に転室したばかりだったとか。バス停を往復していたのは、荷物を取りに一旦帰ったのが理由らしい。
 オレも調べたことのある病院だったのだが、単にすれ違ってばかりで見つからなかった……ってのは肩透かしだが、真実ってのは案外そんなものか。

「でも、なんでオレを?」

 世辞にも有名人とはいえないし、こうして会ってみても、彼女のことも彼女の母親のことも覚えがない。
 それでも、オレがなにか事情を説明する前に彼女の母親は「一緒に来て欲しい」と頼んできたのだ。
 母親は、遠くを見るように緩やかに微笑んだ。

「以前見かけたんですよ、娘と二人で。今日のように誰かを助けていて」

 ――子どもがボールを追いかけて、車にひかれてしまいそうなところを二人で見かけた。娘が声をあげようとしたとき、あなたが咄嗟に子どもを助け出した。娘はそれを見て感動して、それでずっと覚えていたのだ、と。母親は語った。
 だから、彼女はオレを知っていた。今日までずっと、自分のことを忘れてしまってもオレのことは覚えていた。
 覚えて、くれていたんだ。

「娘は、ずっと知りたがっていましたよ」

「なにを、です?」

 声がかすれた。
 やっと届いた、知りたかったはずの真実。それなのに、聞くのが恐ろしいと感じている。
 彼女はオレを覚えている。それなのに、オレは彼女を覚えていない。そんなオレに、彼女のことを聞く資格はあるんだろうか。仮に会ったとして、覚えていないオレを彼女は、許して、くれるんだろうか?
 母親は、そこで初めてオレに顔を向け、にこりと笑った。

「あなたの名前。一体、どこの誰さんなんだろう?って……」

 ――ベクターさん!

 その時、確かに思い出した。
 彼女の声を。嬉しそうにオレを呼ぶ彼女の姿を。
 にこやかで、悪戯っぽくて、でも時々、びっくりするくらい儚く笑う。

 そんな彼女を、オレは。

「……着きましたよ」

 母親に促され、病院の一室にたどり着く。小さいながらも個室である。ゆとりのある家庭なのか、それとも症状の重さ故か。
 いや、と首を振る。
 オレは確認しに来たわけじゃない。彼女を、救うために来たんだ。
 高鳴る心臓を押さえながら、息をつく。そして引き戸に手をかけ、ゆっくりと開けた。
 小さな個室だった。正面に窓があり、右手に小さなテレビ台が、左手には壁に沿ってベッドがある。オレは、そこに横たわる人物の顔をそっと覗き込んだ。
 ああ、間違いない。彼女だ。
 ずいぶん痩せてしまっているが、確かに彼女が眠っている。
 オレは、彼女の手を優しく握った。その手は温かく、生きていることを実感する。点滴が繋がれていて大きく動かせないのがもどかしかった。

「彼女の名前、は」

 後から続いてきた母親に、背を向けたまま問いかける。

「……未登録名前、と、言います」

 やっと。
 やっと、名前が聞けた。
 それなのに、なんでオレの声は喉の奥でつかえてるんだ。
 開きかけた口の端から息が漏れて音にもならない。ようやく呼べる彼女の名前は空気に消えた。
 ようやく、そう、オレは、ずっと彼女の名前を呼びたかったんだ。名前を呼んで、そうして応えて欲しかった。

 もう一度。
 ベクターさん、と。

 なぁ、お前さんは今どこにいる。
 約束通り見つけたんだぜ。本当の自分は怖い人かもしれないなんて、そんなのウソっぱちだった。もしお前がオレを忘れたんだとしても、お前さんが生きてる限り何度だって会えるんだ。

 お前がどんなに忘れちまっても。
 お前が覚えてくれていたように、オレもお前を忘れたりなんかしない。
 だから、もう一度、初めましてと言わせてくれよ。

「未登録名前」

 そのときだった。
 握っていた手がかすかに動いた。息を呑む。眠る彼女を見つめると、目蓋が震えて、ゆっくりと開いた。
 何度か瞬きをし、それからオレと視線を交わす。

「…………あなたは、」

 よく晴れた青空だった。細い雲がたなびいて、太陽は木々や人の影をくっきりと映し出す。
 病院の中庭はリハビリ中や見舞いの人で賑わい、子どものはしゃぐ声も聞こえる、穏やかな空間となっていた。
 その中を、オレは一つの車椅子を押して歩いていた。座っているのはもちろん――

「いい天気だなぁ、未登録名前」

 未登録名前は空を仰ぎ見て、

「うん。すごくいい天気」

 深く息を吸って、吐いた。

「こんなふうにまた息が吸えるようになるなんて、思わなかったなぁ」

「やっぱ幽霊ってのは、息もしねぇのか?」

「しない、っていうか、吸ってる感覚なかったね。ぜんぶ夢の中みたいで」

「夢の中、か」

「モヤがかかったみたいで、あんまりはっきり見えてなかったの。感覚だってもちろんないし、声とかも壁越しに聴いてるみたいだった……」

 少しずつ思い出していくように、未登録名前は声のトーンを下げていく。オレが想像していた以上に、幽霊の状態ってのは不安定なものだったらしい。
 それでもこうして未登録名前の記憶が継続しているのは、奇跡ってヤツなのかもしれない。

「ベクターさん」

 未登録名前がこちらを見上げて、名前を呼んだ。

「どうした、未登録名前」

 一度車椅子を止めて、呼び返す。未登録名前は少しだけくすぐったそうに笑い、あのねと切り出した。

「そういえばベクターさんに、まだ報酬を払ってなかったなって」

「ああ」

 幽霊のときに交わした約束。無事に見つけ出すことができたら、未登録名前の一番だと思うものを貰う、そんな内容だった。
 正直なところ、報酬を気にかけている未登録名前への建前という意味でもあったんだが――

「それなら、とっくに貰ってるぜ」

 そう言うと、未登録名前は思い切り目を丸くした。

「私、なにもあげてないよ」

「いいや、貰ったさ」

「うーん覚えてないや……どれだろ?」

「そいつは言えねぇな」

「えー!教えてよ、ベクターさん!」

 未登録名前の呼び声は、確かに空気を震わせて、オレの胸に響いていた。