「……何やってんだ未登録苗字」
「あ、海堂君」
背後からかかるドスの効いた声に振り返ると、ランニングウェアを着た海堂君が怪訝そうに立っていた。
海堂君とは家も近所で学校も同じなので(さすがにクラスは違うけど)、会えば挨拶するくらいの仲だ。逆を言えばそれ以上会話することはなく、今この瞬間は大変珍しいと言える。まあ夕方に路上の側溝をじっと見つめながらしゃがんでいる顔見知りがいたら、私でも声かけるかもしれない。っていうか普通かけるな、そんな不審者。
「……で、何やってんだ」
「えーと、そ、それは」
急に自分が恥ずかしいことをしていたと意識し、誤魔化すようにぱたぱたと手を振った。
「大したことじゃないよ、気にしないで……ああごめん本ッ当大したことじゃないんだけどね!!?」
会話を終わらせようとしたことが分かったらしく、海堂君の眉間にどんどんシワが寄っていくのを見て、観念した私は正直に告白した。
「ここに……携帯ストラップ、落としちゃって。紐、切れかけてたみたいで……」
沈黙。
海堂君のほうを見ずに言ったから彼が今どういう表情をしてるか分からないけど、きっと呆れているに違いない。たかがストラップを側溝に落としたくらいで何を、って。そりゃ、たかがストラップだよ。特別な思い出があるわけでもないし、ただ可愛いから気に入ってた、それだけのもの。でも、自分の不注意で手の届かない場所にやってしまったのだから、へこまずにはいられないんだ。
たっぷりの沈黙のあと、海堂君はこう言った。
「……そこ、どけ」
「はい?」
「どけ」
ぎろりと睨まれ恐怖した私は、カエルのようにぴょいと後ずさった。一体どうしたんだと思っていると、海堂君はおもむろに側溝の蓋を持ち上げた。
「どええええ!?」
「うるせえ!」
「あっハイ」
海堂君は片手で蓋を持ち上げ、空いた手で汚水を探った。
「あああ、そんなしていただかなくても本当大したもんじゃないし手汚れちゃうからほんと大丈夫だから!!」
「うるせえっつってんだろ!……これか?」
海堂君がつまみ上げたのは、小さな猫のマスコットがついたストラップ。泥にまみれていたけれど、確かに私が落としたものだ。
「そっそれだ!ありがとう海堂く、」
「バカ、そのまま受け取ろうとすんな」
手を差し出すが、逆に海堂君は手を引っ込めてしまう。何がダメだったんだろうか。戸惑っていると、フシュゥと息をついた海堂君は側溝の蓋をきれいに戻し、それからポケットから取り出したハンカチでストラップをくるんで水気を取って自分の手も拭く。
……あ、そういうことか。私の手が、汚れるから。ハンカチも常備とは、なんてマメな性格だろう。
水気が取れると、差し出したままの私の手にストラップを乗せた。
「おら」
「わ、あ、ありがと」
「もう落とすんじゃねえぞ」
「かっ海堂君!」
そのまま走り去りそうな海堂君だったが、私の声で足を止めた。また眉間にシワが寄っているが、もう、あまり気にならなくなっていた。
「優しいんだね、海堂君。今まであんまり話したことなかったから、意外だったよ」
「……何が言いてぇ」
「あーいや、ばかにしてるんじゃないんだよ!近所で学校も同じなのに、海堂君のこと全然知らなかったの、もったいなかったなって思って」
「……もったいない?」
「だって、よく知らない私のこと助けてくれたじゃない。そのくらいいい人と近所なのにーって。ね、これからは話しかけに行ってもいいかな」
海堂君は、視線を少しだけずらして。
「……好きにしろ」
かすかに、笑った。
「ありがとう!」
私の手の中にあるストラップはすっかり汚れてしまったけれど、どんな新品よりも輝いて見えた。
(おはよう海堂君!)
(ああ、おは……!?)
(よーマムシ!なんだお前、ついに彼女出来たのかぁ?)
(うるせえ!そんなんじゃねえ!)
(マムシってなに?あだ名?私も呼んでいい?)
(いいわけあるかバカ!)
(えーひどい!バカは合ってるけど)
(そこは否定しとけよ!)
(……マジでこいつら、いつの間に知り合ったんだ?気ぃ合いすぎだろ)