引き継ぎ本丸、と聞いて、良い印象を持つ人はまだ少ないだろう。
時の政府による審神者制度発足当時のことだ。圧倒的な数の遡行軍に対抗するためにとにかくこちらも数を増やす必要があった。つまりろくな審査もないまま審神者を増やすことになり、すると当然中には人間性のヤバイ奴もいるわけで、そんな奴が主で出来上がるのはブラック企業ならぬブラック本丸である。もちろん本丸の運営に支障をきたしまくったので、のちに時の政府は厳正な審査を重ねた審神者を本丸に引き継がせる制度を設立、また審神者の採用時にキチンとした試験や研修制度を整えた。おかげでそういったブラック本丸の話はとんと途絶え、現在、本丸の引き継ぎが行われるのは事情により已む無く審神者を辞する者が現れたときだけだ。
とはいえ。
一度広まった風評というものはなかなか払拭できるものではなく、自分のところが引き継ぎ本丸でーなんて話をしようものなら眉をひそめる人の方が多いのだ。かくいう私もそのうちの一人であった。
自分が引き継ぎ本丸を任されることになるまでは。
「――以上が、この本丸の概要になります」
「はぁ」
私の気のない返事を聞いてか、政府の職員は眉間にシワを寄せた。せっかくメガネの似合う美人なのになぁなんてことをぼんやり考えた。
審神者御用達の万屋街、蕎麦屋にて。私は政府職員と向かい合って引き継ぎ本丸の打ち合わせをしていた。蕎麦屋はなかなか広く高級感のある居住まいで、テーブル席、カウンター席のほか奥に4人掛けの座敷席がある。私たちはその座敷席に座っていた。ゆったり座れてこれで掘り炬燵だったら最高だったが座布団なので絶賛足が痛い。
私のぼんやりした雰囲気に、政府職員はメガネのつるを持って不機嫌さを顕にし、ため息交じりに告げる。
「いいですか、引き継ぎ本丸は非常にデリケートです。今回あなたが担当していただくのはそういった……黒い噂が立ったような場所ではありませんが、主人を変えるということ自体が彼らにとっては大きな負担なのです。霊力、神気……それから心。あなたにはそんな彼らを支えるという大きな責任があります。ゆめゆめ忘れることなきよう」
んなこた分かっている。分かっているから恐ろしいのだ。だって自分に置き換えるとしたら、今まで居心地の良い職場だったのに突然上の命令で上司が変わってしかもそれが合わないとなったら――考えただけで胃痛ものだ。数年でも社会人やアルバイトの経験があれば容易に想像できる。
夕べ不安だからって審神者用の匿名掲示板(俗称:さにちゃん)で引き継ぎ本丸の話なんて検索するんじゃなかった。愚痴が書き込まれやすい場所とはいえ、やれ引き継ぎ先の刀剣男士と折り合いが悪いだの、やれ引き継ぎ本丸は政府から冷遇されるだのといったシンドイ話が山ほどでてくるのだ。それらを考えたら、ちょっとくらいため息やら気のない返事やら出てくるのは勘弁してほしいところである。
不意に、女性職員が私の背後に視線を投げた。つられてそちらを見やると、入り口にひときわ大きな背丈の男がなにかを探すように視線を巡らせていた。肩口までの黒い髪に金色の襟足。白地に黒のだんだら模様の入った羽織。具足は付けていないようだが、あれは刀剣男士だ。確か研修で習った気がする。
男士は女性職員の姿を見とめると、案内しようとした店員さん(お椀の妖怪らしい)に会釈して断りこちらに近づいてきた。
「あんたが次の主か?」
「あ、はい。そうです」
少しばかり粗野な物言いをする男士だと思ったが、声音は決して攻撃的ではない。金色をした瞳も柔らかく細められており、そこに『次の主』を値踏みするような態度は見られなかった。
ちょっと、安心した。もしこれで拒否するような素振りでも見せられようものなら、すんませんやっぱ無理ですと言い出すところだった。
ほっと胸を撫で下ろしていると、男士は職員の隣に――ではなく、私の左隣に座った。
「長曽祢虎徹という。贋作だがな。前任者の近侍を務めていたものだ。以後、よろしく頼む」
すっと右手を差し出されるが、しばし逡巡。いやそこは普通職員の隣に座るものじゃないだろうか。気安いのはありがたいが、妙な腑に落ちなさがある。
しかし呆けている場合でもないのでそのことは一旦仕舞っておき、私も右手を差し出して握手をした。武骨で大きな手。まさしく武人の手である。手を離す頃には、長曽祢虎徹がどういった刀であったかを思い出していた。確か新選組局長、近藤勇の佩刀である。贋作だとは言うが、彼の口から発せられた『贋作』には憂うでも自虐するふうでもない、ただ事実を述べている以外の意図はないように感じた。
「この度あなた方の本丸を任されることになりました、未登録名前といいます。よろしくお願いします」
「ああ」
小さく頭を下げると、長曽祢さんは笑った。見た目の豪放さに違わぬ鷹揚ぶりで、私はすっかり安堵していた。近侍でこの雰囲気ならば、きっと引き継ぎ先でもそこまで肩肘張らずに就任することができるだろう。そんな想像をしていた。
だから気づくのが遅れた。
女性職員が、どんどん不機嫌になっていくのに。
「もっと他に言うことはないのですか、長曽祢虎徹」
えっ、と声を出す暇もなかった。
職員はなおも続ける。
「粗雑で言葉が少ない。それでは相手を萎縮させると注意していたはずです」
「……善処はしている」
「あなたはいつもそれですね。初対面の相手には言葉を尽くさねばと言っているでしょう。人同士の関係は第一印象が大きく関わるのですよ」
「そういうあんたはどうなんだ? 客人の前で叱責するような態度こそ悪印象を与えかねん」
「な……!!」
なんだ、これは。
どういう状況だ。
なんで二人がいきなり言い合いに、っていうか、話しぶりからしてすでに知り合いだったのか?どう聞いてもただの政府職員と引き継ぎ本丸の近侍の会話ではない。
まるで、そう、これは。
(そうか。前任の審神者というのはこの職員のことだったんだな)
プライバシーがどうとかいう理由で、どうして本丸を引き継ぐことになったのか、前任がどういった人だったのかなどは聞いていない。しかし、そう考えると職員の私に対する態度が厳しいのも納得できた。
では、長曽祢さんへのこれは――
ああ。
この二人は恋仲にあったのだ。
だから長曽祢さんは職員の隣ではなく私の隣へ座ったのか。
「――もう勝手にすれば!!」
ダン、と職員がテーブルに手をついて立ち上がる。呆気に取られているうちに職員が出入り口のほうへ早足で向かって行った。
引き継ぎ本丸の資料を抱えたまま。
「ちょっ……せめて資料は置いていけーー!!」
渾身の叫びが届いたのか、職員はピタリと足を止めた。そのまま返ってくるかと思いきや、資料を空いているテーブルに押し付けると店を出て行ってしまった。
一瞬途方に暮れるが、このままでは店に迷惑だと思い急いで資料を取りに行った。カウンター越しに店員さんにご迷惑をかけましたと頭を下げて、そそくさと席に戻る。道中、他のテーブルでは刀剣男士と審神者らしき女性が仲良さげに話しているのを見て、引っ込んでいたため息がまた漏れた。
女性職員がいたところに座るのは躊躇われたので、致し方なく長曽祢さんの隣に戻ったが、気まずい。ものすごく気まずい。気まずすぎて長曽祢さんの様子をうかがうことすらできない。しかしこうしていても埒があかない。何せ私は今日から彼のいる本丸に住むことになっているのだから。
「…………蕎麦、食べようか」
出した結論は、とりあえず何か食べていれば喋らなくても間が持つだろうということだった。
隣を見ずに言ったので、長曽祢さんは驚いているかもしれない。何を呑気なことをと引いているかも。悪い想像をして冷や汗を流していると、長曽祢さんがふっと息をついたのが分かった。
「そうだな」
声に、先程までの棘はない。おや? と思っていると長曽祢さんはお品書きのメニュースタンドを取って私に見えるよう寄越してくれた。
よかった、とりあえずこの場はなんとかなりそうだ……と思ったのも束の間。ここは高級、とまでいかないが良いお値段の蕎麦屋さん。で、私の今の持ち合わせは少ない。さらに、引き継ぎ本丸は予算が低く設定されている。最後に、ここの支払いをしてくれるはずだった職員は怒って出て行ってしまっているときた。
「ほんっとごめんなんだけど、あんま高いのはナシでね。引き継ぎ本丸って予算少ないらしくって、んで今手持ちが……」
言いながら、恥ずかしさのあまり視線が落ちる。これから彼の、彼らの主になる人間だというのにこんな情けないことを言っていては立つ瀬がない。
せっかく、引き継ぎ本丸の近侍という難しい立場であるにもかかわらず歩み寄ってくれたのに、これでは呆れられても文句は言えない。そんなことを考えながら、おそるおそる、長曽祢さんを見上げる。
肩を震わせて笑っていた。
「ちょっと」
「いや、すまん、……ふ、くく」
口元を手で覆っているが、隠しきれていない口角が持ち上がっているのが見えてしまう。邪険にされるよりよほどマシだが、出来事に脳が追いつかない。ひたすら頭にハテナマークを浮かべていると、呼吸を整えた長曽祢さんが言う。
「おれはもう決まった。あんたは?」
「え? え、っと。……うん、決まった」
「じゃあ注文するか。――すみません」
長曽祢さんが少しだけ声を張ると、お椀の妖怪が伝票を片手にやって来る。
「お決まりでしょうかぁ」
「おれは海老天蕎麦を。それと海老天追加で」
何言ってんだこいつ。
話聞いてたのかこいつ。
どう見ても高いだろその組み合わせは。
言いかけたが、店員さんがそちら様はと促すので慌てて「とろろ蕎麦を」と告げる。店員さんは伝票に書き込むとさっさと奥に引っ込んでしまった。
取り残された私は思わず長曽祢さんを見上げた。文句のひとつでも言ってやろうと思ったのだ。
しかし。
「どうした?」
「…………なんでもない」
言えなかった。目を合わせた長曽祢さんは、金色の瞳をゆるく細めて穏やかに笑っていたからだ。先ほどのピリピリとした空気はすっかり抜けて、優しい表情に戻っている。
何がどうしてこうなった。もう、色々ありすぎて頭がこんがらがっている。とりあえず海老天の文句はあとにして、ここはさっきの口論の件を聞かなければ。けれど、泣く泣く本丸を去った人のことを、しかも恋人同士であった人のことを聞くなんて野暮ってものではないか?ていうかものすごく聞きづらいぞそんなこと。とはいえ今はっきりさせておかなければどんどん聞く機会を失う。それによって今後の業務に差し支える可能性を考えたら、多少気まずくてもこの場で思い切って聞いたほうがいい。うん。よしそうしよう。
「あ」
「お待たせしましたぁ。海老天蕎麦と、とろろ蕎麦ですぅ」
間延びした声とともに湯気立ち上る蕎麦が目の前に並べられていく。なんていうタイミングの悪さ。もはやお笑いの域である。
……なんか、もういいや。
今は何も考えず、蕎麦を食べることだけに集中しよう。諦めた私はいただきますと両手を合わせて、ぱちんと割り箸を割ると隣からも同様の音がした。その後、
「そら」
私の器にこがね色の海老天が乗せられた。
「……え?」
「ん? 海老は嫌いだったか?」
「いや、好き、だけど」
「そうか」
「じゃなくて、これ」
「最初からおれが払うつもりだった。気にするな」
そう言うと長曽祢さんは、自分の蕎麦を静かに啜り始めた。
肩の力が、一気に抜けた。
この短時間で色々ありすぎて、困惑して、……正直、この先うまくやっていけるのか不安になっていた。だけど、長曽祢さんの心遣いが柔らかく私の不安を包み込んでくれた、そんな気がした。
蕎麦を啜って、海老天を食べる。出汁は現代で言うところの関西風で、それをふわりと揚がった衣が吸ってとても優しい味がした。美味しい。また来よう。自然にそんな風に思った。
縁、とは、不思議なものだ。
それは古い馴染みたちとの再会であったり、または贋作でありながら真作の兄という立場を与えられたりするなど、人の身を得てからの日々はそんな『縁』を幾度となく考えさせられた。
しかし、縁とは望まぬものにも作用してしまうらしい。
主が政府職員となったことは知っていた。だが、今日この打ち合わせに同席しているとは知らなかった。蕎麦屋の入り口から主の姿を見たとき、なにかの間違いではないかと疑ったほどだった。たじろいでいると、主がおれを見つけた。その視線はいつもと変わらず凛としたものであった――しかし、奥に灯るほのかな薄暗さにも気がついた。気がついてしまった。主はいつも己の弱さを内に隠して、他人に気取られまいとする。気付くのは、いつも、おれだけだった。
心苦しさから主の隣に座ることは躊躇われた。それが引き金だったのだろう。それから主の目はどんどん鋭くなり、遂には言い合いに発展してしまった。元来、主は感情的になりやすい。それを諌めようとすればするほど、おれの下手な言葉では逆撫でするばかりであった。いつもの、本丸の光景だった。無いのは『明日』、困った顔でおれに謝罪する主の姿だけだった。
――蕎麦、食べようか
出ていった主の背中を見送って、さてなんと弁解しようか考えていたとき、新しい主はそう切り出した。そして続く二の句で思わず笑ってしまった。
新しい主は、こんな状況に立たされてなお、おれたちの主でいてくれようとしている。なんとありがたいことか。先ほどまでの溜飲は下がり切り、影も形もなくなった。
――この主ならば、大丈夫だ。
そう確信したおれはその場で小さな返礼をし、これからのことを考えながら蕎麦を食した。
蕎麦屋を出て、新しい主を本丸へ案内する。まず大広間に皆を集めて顔見せをし、挨拶をしたのち施設の説明や荷運びなどを行った。新しい主の部屋はひとまず客間へ。それは彼女自身の意向で、曰く「まだみんなの心には前の主がいるだろうから、主の間を使うのは今はやめておきたい」ということだった。実際、男士の中にはまだ心の整理がついていないものもいる。その配慮に頭が下がると同時に、やはり彼女が新しい主で良かったと改めて思った。
夕食を済ませると、おれは新しい主のいる部屋へ足を運んだ。短刀たちが眠りにつこうという時間だったので、障子越しに声をかける。
「夜分すまない。長曽祢虎徹だ。少しいいか」
「……長曽祢さん? どうかした?」
ぱたぱたと足音がする。まさか障子を開けようというのだろうか。
「そのままでいい。……刀相手とはいえ、夜更けに異性を部屋に招き入れるものではないぞ」
「んー、そういうもの? まぁいいか。それで、どうかした?」
新しい主は、少しばかり大胆というか、頓着がない人物であるらしい。昼間の出来事を思い出して苦笑したのち、話を切り出した。
「明日からの流れを話せていなかったと思ってな。審神者の仕事内容は資料に載っていると思うが、この本丸の細かい規則や、どういう方法で運営していたかなどはまだ分からないだろう」
「確かに。まだみんなのこともよく知らないしなぁ」
「そこで、あんたがここに慣れるまでは引き続きおれが近侍を務めようと思うんだが、問題ないか?」
「…………あー、うん。そうだね。そのほうがむしろ助かるよ」
「――その間は、やはり昼間のことが気掛かりか?」
「そりゃ、まあ……」
「……おそらく気づいていると思うが、前任者は彼女だった」
緊張が走った。のは、気の所為ではないだろう。
無言は肯定と捉え、おれは続けた。
「已む無い事情があった。今はそれしか言えん。だが、落ち着いた頃にいずれ話そう」
「無理に、話さなくてもいいよ。……みんな前の主をすごく慕っていたんでしょう? きっと前の主もみんなのこと大事にしてたんだよね。ほんとに事情があって、仕方なくこうなったっていうの、本丸を見てたら分かる」
「……おれたちは、この本丸が誰かに引き継がれることになると決まったとき、皆で約束したことがあるんだ」
「約束?」
「ああ。主が身を切る思いで手放した本丸、誰に引き継がれることになったとしても必ずその者に尽力する、と」
それは総意でもあった。おれたちが敬愛する主、その主が残してくれたものを守り抜くために、引き継いでくれる者を暖かく迎え入れようと。
「だから、おれたちは新しい主に従う。……あんたにしてみれば、前の主を引きずっているように思えるだろうが」
「んなことない!」
ばっ、と障子が開いた。
呆気にとられていると、新しい主はぐっと詰め寄った。
「さっきも言ったけど、みんなを見てたら前の主がどんだけ思ってたか分かるんだよ。そこに無理やり取って代わろうなんて思わないし思えない。っていうか出来ない。だからみんなはそのままでいい。私は、ただ、引き継いだだけなんだから」
ああ、そうか。
新しい主は、おれたちに線を引いてくれている。皆の心にある『主』に踏み込まないように。
「あんたは、優しいな」
自然と手が伸びた。その手は彼女の小さな頭に乗せて、ゆるゆると撫でる。
「あんたが新しい主で良かった」
「え、あ、わ」
先程までの威勢はどこへやら、新しい主は面白いくらいに顔を赤くし慌てている。こういったことには慣れていないのかもしれない。新たな気付きにまた笑みがこぼれた。
「さ、今日はもう休め。明日から忙しくなる」
「は、い……」
「おやすみ、主」
そう言うと、主は一瞬瞠目していたが、すぐに口元を綻ばせて「おやすみ。長曽祢さん」と答えた。