引き継ぎ本丸の浦島虎徹

引き継ぎ本丸の浦島虎徹

 主さんが変わる。
 そう聞いたとき、俺は泣かなかった。そりゃ、すっごく悲しくて辛くて、出来ることならもっと一緒にいたかったけど、それ以上に、大好きな主さんが苦しい思いをしなくてすむ、命が助かるっていう安心のほうが勝ってた。あんなに優しくて凛々しい主さんが、血を吐くみたいに泣く姿を見るのは、もう、いやだったから。
 だから、みんなにも言ったんだ。「俺たちのことを大事にしてくれた主さんのためにも、主さんが残してくれた本丸をみんなで守ろう。そのために、引き継いでくれる人をあったかく迎えよう」って。
 「そのとおりだ」って、最初に言ったのは蜂須賀兄ちゃんだった。その次に、長曽祢兄ちゃん。そうしたら新選組のみんなが同意してくれて、そこから、水面に波紋が広がるみたいにみんなが意見を揃えてくれた。
 嬉しかった。反対されるかもって気持ちもなかったわけじゃないからさ。でもみんながそうやって前向きになってくれたこと、主さんの思いを新しい形で継ぐことを受け入れてくれたのが、俺は本当に嬉しかったんだ。
 そうしたら、俺の中に「早く新しい主さんに会いたい」って気持ちが生まれた。さっきまでは悲しい、辛いって気持ちのほうが強かったのに。感情って、不思議だ。俺は人の体を持ってからそう経っているわけじゃないけど、多分、心っていうのは海に似てる気がする。凪いでいたり荒波だったり、潜ったらすごくすごく深くて、あったかかったり冷たかったりする。
 新しい主さんは、どんな海を持ってるのかな。そう考えたらどんどん気持ちが膨らんで、引き継ぎの日が待ち遠しいなと思った。

 大広間で初めて見た新しい主さん……ううん、主さんは、見ていて可哀想なくらい緊張してた。声は震えてるし体はがちがちだし、ちょっとだけ大丈夫かなって思ったりもした。でも、側に控えていた長曽祢兄ちゃんの顔を見たら「あ、この人なら大丈夫なんだ」って思った。主さんを見ている長曽祢兄ちゃんは、今まで見たことないくらい柔らかい表情をしてたから。

「いいなぁ。楽しそう」
 偶然、本当に偶然だった。転がっていった鞠を追いかけてたら、主さんがそんなふうに言った。優しくて、あったかい横顔。まるで春の海みたい。だから、誘いの言葉が出たのも俺にとっては自然なことだった。
 で、思ったとおり、主さんは優しかった。先代さんも優しかったけど、うーん、種類が違うっていうのかな。俺は難しい言葉はわからないから上手く言えないけど、とにかく、俺はこの主さんについていくぞっていう気持ちになったのは確か。
 それだけ分かれば、十分だよね!

「主さーん、亀吉知らな……あ、やっぱここにいた」

 主さんが執務室代わりにしている客間を覗くと、主さんの横で丸まっている亀吉を発見。最近の亀吉は、俺から離れることがあると大抵ここにいる。

「浦島くん。亀吉くんなら気持ち良さそうに寝てるよ」

 亀吉を起こさないようにしてか、ちょっとだけ声を控えめに言う主さん。寝入った亀吉はちょっとやそっとじゃ起きないけど、そんな心遣いが嬉しいから俺も主さんのそばに寄った。

「亀吉は主さんのところが居心地いいんだね」

「……そうなのかなあ」

 なんて言いながら、主さんはちょっとだけ困ったように笑っていた。
 主さんは、あんまり自分に自信がない人みたいだった。最初のうちは引き継ぎ先の俺たちに遠慮してくれてるのかなーって思ってたけど、会話してくうちにそれは主さんの元からの性格だってことが分かってきた。そういう控えめな性格だから、政府は引き継ぎ本丸っていう難しい場所に主さんを送ったのかもしれない。
 でも。俺は主さんにもっと自信を持ってほしい。だってこんなに素敵な人なんだから、胸を張っていたらもっと素敵になると思うんだ。

「俺も主さんのところはすっごく落ち着くよ」

「そう……?」

「うん! だからさ、これからはちょくちょく来てもいい? 仕事の邪魔はしないから!」

 主さんはうーんと唸っている。
 俺には分かる。それは否定の意味じゃなくて、自分が本当に落ち着くのか考えてるってこと。
 そして。

「……休憩時間ならいいよ」

「やったー! ありがとう主さん!」

 思わず両手を上げて喜ぶと、やっぱり主さんは困った顔をしていた。でも口元はほころんでいて、それがすっごく可愛かったから、俺はもっと主さんに笑って欲しいなって強く思った。

「主。そろそろ休憩に――浦島もいたのか」

「あっ長曽祢兄ちゃん!」

 近侍をしている長曽祢兄ちゃんがお盆を持って入ってきた。きっと燭台切さんの八つ時のお菓子だろうと思い、跳ねるようにして長曽祢兄ちゃんのそばに寄る。

「おおーっ、くず餅!」

「こら危ないだろう。お前の分は厨にある」

「まぁまぁ。わざわざありがとう、長曽祢さん」

「構わん。それに、放っておくとあんたは仕事に没頭するからなあ」

「いやーははは……」

「笑いごとじゃないぞ、全く……」

 あ、と思った。
 長曽祢兄ちゃんが、すっごく優しい顔してる。あの大広間で主さんを見てたときと、おんなじ顔。

「ねえっ、俺もここで一緒に食べていい?」

 ふたりはきょとんとした顔をしていたけど、すぐに主さんがにこやかに「いいよ」と言った。

「やった! 俺、すぐ取ってくるから待ってて!」

 後ろで長曽祢兄ちゃんが「廊下を走るな」なんて言ってるのが聞こえたけど、こんな嬉しい気持ちでいるのにじっとなんかしてられないよ!

 ねえ、先代さん。先代さんは、今どうしてるかな。まだ辛くて悲しい気持ちでいるのかな。優しいあなたのことだから、きっとそうかもしれないね。でも、今度会うとき俺が元気付けてあげられるように、俺はここで笑ってるね。
 あなたが残したこの本丸を、大事に受け取ってくれたひとと一緒に。

 次の日から、主さんの休憩時間に長曽祢兄ちゃんが持ってくるお菓子が三つになったんだ。