自らの命を試し、そして死ななかったことは私の価値観を変えるに充分な事象であった。そして深く理解した。命はこの世で最も強く、そしてこの世で最も尊ぶべきものでなければならないと。
それらを簡単に捨ててしまう愚かな人間は、今一度学び、そして知るべきだ。己が扱う命の重さを。
検診と腹の傷の治療を終え、病院の駐車場へ向かう。傷は順調に塞がっており、病気の経過は「順調に進行」している。命とは実に不思議なものだと感嘆せざるを得ない。天は私を生かしたいのか殺したいのか、父祖の思惑など知りようもない我々にはただ与えられた試練を享受していくしかない。
不意に、足元に小さなボールが転がってきた。同時に響く少女の声。「行っちゃダメ!良い子だから!」ボールに向かって声をかけているらしい。私は屈みこんでボールを、拾わずに手でゆるく抑えて少女と目線を合わせた。
「散歩かね?」
「ありがとうおじさん!そうよ、ロウと一緒におさんぽしてたの」
少女はロウと呼んだボールを、まるで生きている子犬のように両手でそっと抱き抱え、私に向かい笑顔を見せた。おそらく10になるかならないか、それほどまでにあどけない笑顔だった。
「つかまえてくれて、本当にありがとう。なにかお礼をしなくちゃ」
「構わないさ。今度は気をつけておいで」
「そういうわけにはいかないわ。ママが言ってたの、しんせつにしてもらったらお礼をしなきゃダメだって。ね、おじさん」
「未登録名前!」
パタパタと女性が走り寄り、少女の手を掴んだ。
「ごめんなさい、娘が困らせてしまいました」
頭を下げる女性に、私は立ち上がって微笑みかけた。
「いやいいんだ。可愛らしい娘さんだ」
「……未登録名前、きちんとありがとうは言ったの?」
「言ったわ!でもお礼ができていないの」
「未登録名前!しつこくしちゃダメよ」
私は、手を引こうとする女性をやんわり引き留めると、少女に視線を合わせる。
「レディにそこまで言われて、呼ばれないわけにはいかないな」
「わあ、ありがとう!わたし、未登録名前。おじさんは?」
「ジョンだよ」
「ジョンおじさんね!こっち、ついてきて!」
未登録名前は母親から離れると私の手を取った。その小さな歩幅に合わせている間、母親は終始すみませんと謝り続けていた。
着いたのは病院のリハビリ庭園だった。午後になって少しずつ利用者が減った中を未登録名前はまっすぐ進んでゆき、角の小さな花壇で立ち止まってしゃがみこむ。それに合わせると、未登録名前は花壇の花のうち一つを指差してから、そうっと葉を持ち上げた。そこには、チョウのものらしい緑の蛹があった。
「すごいでしょう。この中にはわたしの宝物を詰めてあるの」
「ほう?」
未登録名前は、まるで太陽のようにきらきらと輝く瞳で蛹を見つめている。
「いまはまだ、内緒なんだけれどね、とびきりの宝物がはいっているの。開けるには虹のかけらがいるのよ。ジョンおじさんには、これをあげるわ」
「光栄だ。その鍵は、どこで手に入るのかな?」
「うふふ、ジョンおじさんには特別に教えてあげる。ロウをつかまえてくれたから、ほんとに特別よ……虹のかけらはね、12月に降る最初の雨をね、ぎゅってしてかためるの。そうすると、ここ、ここのところにでっぱりがあるでしょう、そこに、ぴったりはまる鍵ができるの。本当にぴったりよ」
「それはすごい。そうすれば開くのだね?」
「ええ!でもね、そのとき、なにも考えてはダメなのよ。ちょっとでも不安になったり迷ってはダメ、宝物が霧になってしまうの。ジョンおじさんには宝物を手に入れてほしいから、だから、」
「未登録名前!もうよしなさい!本当にすみません、本当に……」
「ママ、」
母親は未登録名前の手をぐいと引っ張り上げて立たせると、ここへ来たときと同じような表情で頭を下げ、未登録名前を連れて院内に戻っていった。未登録名前はどうやらここに入院しているらしい。足元には、未登録名前がロウと呼んだボールが友人を失って寂しそうに転がっていた。
ひとつ。
「未登録名前ちゃん?ああ一昨年くらいに入院してきたんだよ。話したことある?相手をするの、大変だったろう。あの子はね、なんというか……分かるだろう?それで母親も参ってるようでね。あまり見舞いにも来てないんだよ」
ひとつ。
「未登録名前ちゃん、お父様はいらっしゃらないのよ。お母様がちょっと……あんまり大きな声で言えないのだけれどね、大勢の男の人と関係してて、誰だか分からないんですって。今?……残念ながら、今も遊んでるらしいの」
ひとつ。
「俺が思うに、娘が邪魔なんだと思うぜ。コブ付きじゃあ男も寄り付かねえだろ?証拠によ、娘の見舞いのとき必ず食いモン渡すんだよ。するとな、娘の具合が悪くなるのさ。毎回必ずな。ありゃあ絶対なんか入ってるぜ。実の親が寄越すもんじゃ医者も強く止められねえのさ……」
バチン。
隅に置かれたモニターに砂嵐が映し出される音で女は目を覚ました。床に倒れていた女は身体を起こし周囲を見渡す。そこは小さな明かりがぶら下がった密室だった。窓はなく、扉は鉄製のものがひとつあるがその扉には厳しい錠前がかかっている。他、部屋には鉄製の金庫と砂嵐を映すモニターと台があるのみ。女は苛立ったように扉を叩いたり、叫び声をあげていた。
「やぁ、ジュディ」
砂嵐だったモニターに別の映像が映し出された。名を呼ばれたとあって女の目線は釘付けとなる。
「私はゲームがしたい」
画面の中の人形は、淡々とした語り口で言葉を紡いでいく。
「お前は自分の欲望のために多くの男を惑わせ、生まれるはずの命を捨ててきたな。そして、生まれた命も同じように捨てようとしている。そんなお前には、命について考える機会を与えよう。今、お前の体には毒が回っている。あと20分後には毒が全身に回り、もがき苦しみながら死ぬ。すでに息苦しいだろう?部屋のドアは30分経たねば開かない。だがチャンスはある。部屋中央の金庫に入っているアンプルを使えばお前は助かる。だが、金庫を開く鍵はお前の欲望の奥底に封じた。このモニター台の下を見てみるが良い。その器具を埋め込み、ネジを回せば棘のついた傘が開いてお前の欲を引き裂きいて光明をもたらす。薄汚れた欲求を捨てるか、最期まで醜くあがき続けるか――」
そこで私はモニターを見るのをやめ、目を閉じた。
「選択は君次第だ」
そして、モニターの電源を切った。
燃えるような空の下を、私は静かに歩いていた。黄昏を照り返す青芝を踏みしめながら、真っ直ぐ目的の場所に向かう。
――未登録名前ちゃんは、先日……
ようやく事件が新聞に刻まれる頃、訪れた病院で告げられたのは決定的な言葉。そこには慈悲も、平等もありはしない。ただ純然たる事実が横たわるのみだった。
あれが、彼女のため、などと言う気はさらさらない。彼女の母親がそうしたようにただ己の主張を貫いたのみ。それが間違いだとは思わない。だが、正しいとも言えない。なら、この狂った世界の中で清く生きていられたのは、おそらくは君だけだったのだ。
「……未登録名前」
共同墓地のその角、小さな石に刻まれたその名を呼ぶと、私は持っていた花束ともの言わぬ彼女の友人たちを添えて、祈りもせずに背を向けた。
もうすぐ向こうから夜がやってくる。ああ未登録名前、君ならどんな言葉でこの風景を飾ってくれるのだろう。私には、君のような清らかな言葉はもう、出てこないんだ。
(真っ黒になった蛹が、枝からボタリと零れ落ちた)