どんなに大きな満月であろうと、その森の霧を晴らすことはできなかった。深く横たわる霧は夜風に乗って生き物のように周辺を彷徨い、蠢くように地面を撫でる。
はあ、ひ、はっ、
その中に、人間の息遣いが混じる。荒く不規則、足音は重く、森の隙間を走り抜けるのは眼鏡をかけたナード風の青年であった。身につけた白いシャツはすっかり泥に塗れ、額に玉のような汗を浮かべながら必死の様相を呈していた。
時折背後を振り返りながら走り続け、やがて男は朽ちたレンガ壁の群れに行き着いた。男は壁の間に身を隠すと、口元に手をあてて自分が来た方向を確認する。
何も見えない。そもそも霧が邪魔をして視界が悪い。音は、木々の騒めきと、遠くで吠える獣の唸り声、それから飛び去ったカラスの羽音があるだけで――
カラス?
はっとする。ドクドクと心音が暴れている。男はレンガの壁を抜け、先程とは逆方向に走り出した。
瞬間、けたたましい音と共に激痛が走る。足にがっちりとトラバサミが食い込んでいた。男は呻きながら必死でそれを外そうとするが、重い鉄の刃は手のひらをも蹂躙する。
やがて、それは姿を表した。
黒いウェーダーを着た大男だった。右手には大きな肉切り包丁を携え、肩には捻じ曲がった鉄の棒がいくつも突き刺さっている。顔は、不気味な笑顔を模した白いマスクでうかがえない。
マスクの男はトラバサミにかかった「獲物」を担ぎ上げると、暴れる獲物をよそに一本の柱の前に立った。その柱には肉を吊り下げるための大きなフックが垂れ下がっている。
マスクの男は、躊躇いなく獲物をフックに突き刺し、その猟奇的な柱に吊るした。
森に絶叫が響き渡る。呼応するように周辺の霧がザワザワと動き出した。まるで、吊られた者を嘲笑い、喜んでいるかのようであった――
「どうかお願いです、息子を見つけてください!」
泣き腫らす婦人を、まぁまぁと諌めながらロバートは胸中で閉口していた。こういった依頼は昨日に引き続き三件目となる。同じように取り乱した人間を立て続けに眺めていると、同情も次第に「倦怠」となった。
ロバート・ブラウンは私立探偵である。40を幾つか超えた年齢でありながら、狭いアパートの一室を事務所とし、しがない失せ物探しや浮気調査でなんとか生計を立てて暮らしていた。世間一般から見ると彼の地位は決して高くはなく、家賃や生活費を賄うには細かな仕事でも引き受けるよりほかないほど、彼の暮らしは困窮していた。
それらを考慮すれば今回の依頼人はみな金払いもよく、引き受ければ前金も弾むというあたり、ロバートにとってまたとない飯の種であった。だが彼の長年の経験からして、滅多にない金払いのよい事件が立て込む時は往々にして莫大な労力を要するものである。
だが。
ロバートは、テーブルの上に置かれた新聞に目を向ける。畳まれた紙面の隅に、小さい見出しで「謎の失踪相次ぐ?」の文字が見えた。
「分かりました」
言い放つと、婦人はようやくハンカチから顔を上げた。
「息子さんは必ず見つけ出します。……前金をいただければ」
「……! ありがとうございます、本当に……」
婦人はまた涙を流しながら、繰り返し繰り返し謝辞を述べていた。
情が湧いたわけではない。ロバートには、ある目的があった。長年追い求めてきた目的が。そのためならどんな手段も使うと誓った。それが、彼に残された唯一の正義であった。
夫人が帰るのを見届けて、ロバートは古びた皮のコートを羽織って外に出た。
ロバートは金に執着していないが、目的を果たすためには金が要る。ならば今回のこの騒動、手際良く解決していけば、しばらくは気乗りのしない依頼を受ける必要もなくなるだろう。
この街、スモークウッドは、特別に目立つところはない。平野部に位置し、山はあれど険しくなく、付近を流れる川は下流で穏やかである。主要駅周辺はそれなりに栄えているが、郊外へ行くほど人気がなくなり、大きな観光名所があるでもなければ、著名人の出自があるわけでもない。よく言えば閑静、悪く言えば田舎と表現できた。
その中でロバートが取った調査方法は、一番効果的且つ安上がりな「聞き込み」である。人の噂話ほど、迅速で、広がりやすいものはない。狭い街であればなおのことだ。その分正確性は欠くが、真実かどうかは後で自力で調べれば良い。手掛かりの少ないうちは微細な情報でも必要だ。
そういった噂話が最も行き交うのが、昼間のカフェである。この時間帯のメイン客は主婦であり、主婦とはいつの世も噂が好きだ。しかもこの街では珍しい大きな事件ともあれば話さない者の方が少ない。わざわざ人を尋ねて足腰を使うよりも効率的といえる。
午後に差し掛かる日差しの中、ロバートは手近なチェーン店の中に入る。人は多くも少なくもなく、さして待たずに席に着くことができた。コーヒーを1杯注文すると、ロバートは早速メモ帳を広げる。
「……昨日……中央で……」
「天気……明日は雨……」
「……娘夫婦が……」
交わされる言葉の一つ一つを確実に聞き取りながら、ロバートは紙にペンを走らせていく。
走らせながら、ふと違和感を覚える。内容のほとんどは日常的なものしかない。無名と言っていい私立探偵に探し人の依頼が三件。新聞にも失踪に関連する記事がここ1ヶ月微増傾向にある。多少なりとも噂話が出てもおかしくない。なのに、このカフェでそれらに関連する会話がなされていないのである。
(事は、おれが思っているより深刻ではないのか)
それならばこれ以上留まる理由がない。くたびれたコートを着た男がコーヒー1杯で粘るのにも限界がある。
ロバートは荷物をまとめると、次なる調査方法を考えながら席を立ち――
「エンティティ様」
はっと周囲を見渡した。客は相変わらず、他愛のない日常的な会話をする者ばかりだった。
エンティティ
存在、実在、実体を意味する概念的な単語。主にIT関連で使われることが多い。ITで使われる場合は以下の――
そこまで読んで、ロバートはマウスのスクロールを止めた。これ以降は必要な内容ではない。
あの奇妙な言葉を聞いたのち、ロバートは市立図書館のパソコンを使って意味を調べていた。だが、出てくるのは「単語」としての意味ばかりで、それ以上の情報はなかった。
声は、「様」と言っていた。
明らかに人物名である。それも地位が高く、人望がある者の。
おそらくなにかの団体に所属している者と推測できるのだが、エンティティという言葉でその団体を特定することができない。探し方が悪いのか、それとも見落としがあるのか――そこまで考えて、ロバートは画面から目を逸らし、イスの背もたれに寄りかかる。
なにをこんなに一生懸命になっているんだ。事件とは関係がないし、そもそも空耳かもしれない。調べても出てこないというならその可能性のほうが高いだろう。
もっと事件に関連性のある事柄を、とロバートが姿勢を正したところで、ギシ、と背後で何かが軋む音がした。
振り返ると、黒人の警官が一人、柱にもたれながら立っている。温和そうな顔つきをしているが、その目つきは鋭く、威圧感さえ覚えるほどだ。
「ロバート。また怪しい事件に首を突っ込んでいるのか?」
咎めるような口調に、ロバートは視線を下げた。その隙に、パソコンで開いていたページを閉じる。
「……また、って何だ。まるでいつも首を突っ込んでるような言い方をするじゃないか」
「いつもだろう。出どころの分からない噂話や都市伝説までしつこく調べて、お前こそ近隣で噂になってる」
「それが探偵の仕事なんだ。放っておいてくれ」
ジョンは、ロバートの頑なな態度に肩をすくめ、一度言葉を切る。
彼は警察官時代の元同僚である。同時期に採用された縁から何かと行動を共にすることが多く、ロバートの気質も彼のよく知るところであった。それによれば、ロバートは本来真面目で努力家、関わった事件はどんな小さなものであっても真摯に取り組むのが彼の性格であった。
あの事件が起きるまでは。
「……あまり余計なことをしていると、やっかいな事件に巻き込まれるぞ」
「調べがいがあるな」
ロバートの目に諦めの色など微塵もない。ジョンは小さくため息をついて、踵を返す。
「――エンティティ」
ロバートは振り返る。
「そういうものを、崇拝している奴らがいる」
それだけ言うと、ジョンは静かに歩き去った。図書館には静寂が戻り、まるで隔絶されたような感覚に陥る。
もう一度、パソコンで検索サイトを立ち上げた。
検索ボックスに『エンティティ』と打ち込み、エンターキーを押す。表示されるのは先程と同じ検索結果。そこへ、『様』を付けてもう一度検索をかけた。
――エンティティ様の啓示
――肉体の解放
――存在への交信
死後、我々は『霧の森』へ導かれる!
――なぜ、ジョンがこのことを伝えてくれたのかは分からない。長い付き合い故の誼か、それとも落ちぶれた自分への同情か。いずれにしろ、今現在も警官であるジョンがくれた情報ならば確実性がある。
『エンティティ様』を崇拝する団体がいる。
一連の失踪事件に絡んでいるかどうかまでは不明だが、ロバートにはただの偶然だと思うことはできなかった。
もう一度画面を見る。
『エンティティ様』を讃えるページには、蜘蛛の足をまるでリースのように組み合わせたシンボルが浮かんでいた。
ホコリだらけの車を走らせ、中央から少し外れた郊外へ向かう。道路は空いており、進むにつれ人の気配も徐々に薄くなる。時刻は夕方、車窓から差し込む夕日に少しだけ目を細めた。
昨日訪れた依頼人うちの一人、ベティ・メイヒューに会う約束を取り付けたのは、図書館の一件の後である。急な連絡だったが、息子の手がかりが得られるのならと快諾してくれた。
年齢は四十代、十三才になる一人息子を探して欲しいとのことだった。名前はグレン。数年前に父親を病気で亡くしてから、内気がちで友人もおらず、学校から帰るときも真っ直ぐ帰宅するのだという。グレンの写真も預かっており、それは手帳のページに挟んでいる。デニムのオーバーオールを着た小柄な少年だった。失踪当時と同じ服装だということで渡されたものだ。
ロバートは、不審に思っていたことがある。
事務所を訪れたときの夫人の様子だった。夫も亡くし、たった一人の息子が行方不明になったその胸中はおよそ推し量れるものではない。
しかし、彼女は『取り乱しすぎていた』のだ。
彼女の前に訪れた依頼人は落ち込んでこそいたものの、失踪してから時が経っているのもあってかこんなふうに取り乱したり、泣き喚いたりはしなかった。なぜメイヒュー夫人だけがあそこまで感情を露わにしたのか。それを確かめねばならない。
――このタイミングで『エンティティ』の名を聞いたことには、きっとわけがある。
ロバートはそう睨んでいた。
陽が沈みかけたころに、メイヒュー夫人の家へたどり着いた。周囲はよくある田舎街の風景で、大きくも小さくもない家が等間隔に並んでいる。時間帯もあってか人通りもない。路上に車を止めて呼び鈴を押すと、数分あってメイヒュー夫人が顔を出した。
「ブラウンさん。お待ちしておりました。どうぞ」
憔悴しきった顔。声のトーンも低く、視線は下がちである。夫人に続いて家に入るとまずリビングに通された。ソファに座るよう促され腰を落ち着けると、夫人はお茶を淹れてきますとキッチンへ引っ込んだ。
(荒れているな)
部屋の第一印象はそれだった。あちこちに物が散乱し、本や雑誌が積み上がっている。キッチンも片付けができていないようだった。忙しいからか、心配のあまり気が回らないのか、あるいはそのどちらもか。
テーブルの上には大きなスクラップ帳が置かれていた。盗み見ると、行方不明者情報の切り抜きと、それから――
「それで、お話というのは……」
ロバートは慌ててスクラップ帳を戻す。
「あ、ええ、少し質問したいことが出てきましてね」
持ってきたビジネスバッグから手帳を取り出し、ページを開いた。
「お子さんのことですが、いなくなった時の様子をもう少し詳しく教えていただけませんか?なにか変わったことなど」
メイヒュー夫人はスクラップ帳をどけると、カップを差し出してロバートの正面に座る。
「いえ、変わった様子などはありませんでした。朝はいつもの時間に起き、同じ時間に家を出て……学校でも、普段どおりに授業を受けていたそうです」
「では、あなた自身になにか変わったことなどは」
「いいえ……息子を送り出した後はドラッグストアでパートに出ていますが、なにも特別なことは」
ロバートはページをめくり、失踪当時の出来事を確かめる。
グレンがいなくなったとされるのは、午後三時過ぎの下校時間である。クラブ活動や習い事をしていないので、いつもは学校が終わったらそのまま帰宅し、その後は部屋にこもりきりなのだという。
夫人がパートから帰るの午後四時半ごろ。帰ってくるとまずグレンの部屋をノックするのだが返事がなく、ドアを開けると姿がなかった。カバンがないので帰ってきた様子はない。そこから学校に電話をしたところすでに下校したと聞き、失踪したことが判明した。
「きっと、なにかの事件に巻き込まれたのです」
夫人の目尻に、次第に涙が浮かぶ。
「おとなしい子なんです。自分から危険な場所に飛び込むなんてことはありませんから、きっと」
「警察は、どういった見解で?」
「……事件と事故、両方の可能性を追っていると。けれど、目撃情報がないのです。学校から出たところを見た人はクラスメート含めて何人かいたようですが、その後は全く情報がありません。私も近所の方に聞いて回っていますが、息子を見かけた人はいませんでした」
ふむ、と唸ってからロバートは今の情報を手帳に書き込んだ。目撃情報がない、ということはやはり下校中に何かが起こったとしか考えられない。だが事件であれば不審者情報もひとつでも出そうものだが、ロバートが調べた時も、今の夫人の言葉にも上がらなかった。そうなると事故の線が強いと言える。
しかし。
「すみませんが、夫人。息子さんのお部屋を見せていただくことは可能ですか」
「え、ええ。もちろんですわ」
席を立ち、夫人を先頭に二階へ上がる。狭い廊下の突き当たりに、飾り気のないネームプレートがかかった部屋があった。夫人はドアノブを捻ると、ロバートを促した。
「こちらが息子の部屋です。いなくなった時そのままの状態にしてあります」
見たところ、年ごろの少年の部屋にしてはやや物が少なく感じるが、掃除の行き届いたまめな性格とも取れる。つまりはなんの変哲もない、ごく普通の部屋だった。
勉強机を見る。教科書やノートが机上に重ねられているが、煩雑とした様子はなく、鉛筆もペン立てに全て収まっている。おそらく宇宙が好きなのだろう、宇宙船や宇宙飛行士などの絵が描かれたものが多い。ベッドにも似たデザインの布団がかけられている。壁にはグレンが描いたと思しき絵や、ベッドサイド上には木工の工作品が飾られていた。どこかの風景の絵や車の模型。素人目にも上手いと感じた。
その隣にはクローゼットと、それから腰ほどの高さのタンスがひとつ備え付けられていた。
「――写真を撮っても?」
振り向きざまに告げると夫人はびくりと肩を震わせたが、「はい、いいですよ」と返事をした。
「おっと、1階にカメラを置き忘れたな。申し訳ないですが、私のカメラを取ってきてもらってもいいですか?鞄の中にありますので」
夫人は少し顔をしかめたが、分かりましたと部屋を出て行く。その足音が階下に向かったところで、ロバートは素早くタンスに手をかけた。
このタンスだけデザインが浮いているのだ。宇宙で纏められた室内には合わない。古めかしく、飾り気のない木製のタンス。おまけに、絨毯がよれていことから動かした形跡がある。
何があるのか、そもそも失踪に関係があるかは分からない。だが、見ておかねばならない。刑事としてのカンが告げている。
タンスは、中身があまり入っていないらしくすぐに動かすことができた。なるべく音を立てず、慎重に横へずらした。
露出する壁面。そこには。
蜘蛛の足をリース状に重ねたような、
ぎしり。
背後で何かが軋む音がした。しかし何もない。自分が慣らしたのだと気づき、息をつく。と同時に、階段を登る足音が聞こえてきた。ロバートはタンスを元に戻し、姿勢を正して夫人を待った。
「カメラ、こちらでよろしかったですか」
夫人がにこやかにカメラを手渡してくる。
不意に、人間の皮を剥いで自らの仮面とする殺人鬼の話を思い出した。
すっかりと陽が落ち、辺りは濃紺に染まっていた。遠目では人の顔の判別もつかないほど薄暗い。人通りもほとんどなく、夜特有の静寂に包まれていた。
撮影を済ませた後、車に戻ったロバートは運転席に沈み込んだ。懐を探ってタバコを取り出し、火を付ける。
(これで、少なくともこの一件はエンティティとかいうものが絡んでるのが明らかになった)
だとすれば夫人があれほどまでに狼狽えていた理由も分かる。自分が信じていた宗教のせいで一人息子が消えたのだとするなら、警察はもちろん他所者の探偵にだって真実を話すことはできないだろう。
しかし、引っかかる。なぜ宗教がその息子を隠したのか。特に金持ちというわけでもないし、あのマークの隠しようから息子はそもそも信者ではない。
――汗が、喉元を滑り落ちた。
誰も知らない宗教。行方不明者。狼狽える女。
思い出せ。図書館のパソコンで調べた時、何が書かれていた?
啓示。肉体の解放――死後。
生贄だ。
「!!!」
車のボンネットに何かが滑り込んだ。黒い丸い物体。ちょうど人の頭と同じ大きさの。
驚いて、しかしタバコの煙で咽せて咳き込んでいると、丸い物体はひょいと動いてドアガラスを覗き込んできた。
少女であった。黒く長い髪をしており、そのせいで夜の闇に溶け込んでいたのだろう。れっきとした生きた人間だった。
「大丈夫?」
窓を開けると、少女は心配そうに――端に笑みをこぼしながら――ロバートを見ている。
「大丈夫だ、ちょっと驚いただけで」
「ちょっと、に見えないわ。まるで殺人鬼にでも会ったみたいな顔してたもの」
殺人鬼、の言葉に喉が詰まる。
「……子どもがそんなこと言うもんじゃない。おれは大丈夫だから、早く帰りな」
「ねえ、メイヒューさんちに用事?出てくるとこ見たの」
よほど好奇心が強い娘なのだろう、目を輝かせながらずいと詰め寄ってきた。少々うんざりしながらタバコを灰皿に押し付ける。
「君には関係ないだろう」
「あるわよ。グレンとはクラスメイトだもの」
「なんだって?」
「あ、やっぱりグレンのことなのね」
「……」
「そんな顔しないで。グレンと友だちなのはほんとよ。だから、知ってること教えたげる」
少女は悪びれることなく笑った。辟易する一方、これはチャンスだと判断する頭もあった。真実を話さない夫人から聞けることはもうないだろうが、グレンの様子を知る者がいるなら新しい情報もあるだろう。
「おじさん、名前は?」
「……ロバートだ」
「ロバートおじさんね。あたしメアリー。グレンのこと何が聞きたい?」
「そうだな……まず、グレンはどんな子だった?」
「すっごく大人しい子よ。あんまり喋らないけど、絵や工作がとっても上手なの。みたことある?」
「そういえば壁に絵がかけられていたな。確かに上手かった」
「でしょう?あたしグレンの作ったもの好きなの」
本当に仲が良かったのか、グレンのことを話すメアリーはとても嬉しそうだった。
「学校で、特に変わった様子は?」
「なんにも。いなくなった日だっていつもといっしょだったわ。学校が終わったらすぐに帰っちゃったし。……あ、でも」
「でも?」
「なにか探しものがあるって言ってた気がするわ」
「それは本当か!?」
「ほんと」
「何を探してたんだ?」
「それはー……」
なにかを思い出すふうに唸ったあと、急に、にこっと口角を上げた。
「あたしのお願い聞いてくれたら教えたげる」
頭が痛くなった。
「……遊びじゃないんだ」
「そんなに難しいことじゃないわ。ちょっと着いてきて欲しいだけよ」
「どこへ?」
「お願いきいてくれる?」
言葉が詰まった。おそらく数少ないと思われるグレンの友人が目の前におり、今までにない情報を持っている。次があるかどうかも分からない好機だ。だがそのために見ず知らずの子どものお願いを聞いてやる時間も余裕もない。事は一刻を争うに違いないのだ。
「どうする?」
メアリーが首を傾げる。好奇心と期待に満ちた、屈託のない笑顔だった。
――ふと思い出してしまった。娘も今、このくらいの年齢になっていると。
「……仕方ない」
「ほんとう!?ありがとうおじさん!」
メアリーはぴょんと飛び跳ねて、
「じゃあ明日!」
「……急だな」
「いいでしょう?明日、今日とおんなじ時間にここに来て。待ってるから!」
ばいばい、と手を振ってメアリーは走り去って行く。その後ろ姿が曲がり角に消えていくのを見届けてから、深々と息を吐いた。
陽が落ちた空は雲が出始め、星も覆い隠されている。そういえば、カフェで明日は雨だという話を聞いた。
――おとうさん!
日が暮れだしたばかりの土手を、娘が楽しそうに駆けていく。時おりこちらを振り返っては、早く早くとせがんでいた。太陽を背に伸びた影が、飛んだり跳ねたり形を変えて土の道を彩っていくのを、ロバートは眩しそうに見つめていた。川のせせらぎと娘の笑い声が心地よく胸を撫ぜていく、これ以上の幸福はなかった。
8歳になる一人娘だった。屈託なくよく笑い、好奇心が旺盛だった。刑事の仕事でなかなか家に帰れないときも、写真や電話でよく励ましてくれた。かけがえのない宝だった。
それは一瞬だった。
そばにあったジューススタンドで飲み物を買ってくるから、と娘を待たせることにした。お気に入りのクマのぬいぐるみがあれば大人しく待てる子だった。ベンチに座らせて、それからジュースを買って戻った。娘の姿はなかった。クマのぬいぐるみが地面に落ちていた。ずっとお気に入りのぬいぐるみだった。それを放ってどこかへ行くなんてことはありえない。
それから4年。娘はまだ見つかっていない。
「は、」
起き上がって、大きく息を吸った。狭いアパート。散らかった部屋。物で溢れ返る机。――その隅に座るクマのぬいぐるみ。
あの日、放心するロバートのもとへ駆けつけてきたのはジョンだった。きっと誘拐されたんだ、彼はそう言った。その後のことはよく覚えていない。しかし、諸々の手続きやらをジョンが良いように取り計らってくれたということを後から知った。やがて妻が心を病み、自分の元から去ったときロバートはある決心をした。
娘を見つけ出す。何があっても、どんな事をしてでも、必ず。それがロバートに残された唯一の正義だった。
(あのメアリーという子が、娘を思い出させた)
脂汗を拭い、枕元に置いてあった水を飲み干す。
容姿は違うが、娘も同じぐらいの年齢だ。学校に通っていればきっとこんなふうに好奇心を輝かせていたに違いない。人見知りもしないので友だちも多く出来たことだろう。だから余計に重なってしまった。
メアリーは、娘に似ている。
ロバートはベッドから降り、手早く着替えを済ませると上着を引っ掛けて外に出た。もうすぐメアリーとの約束の時間だ。今は目の前の目標をこなすことが先決である。この約束が済めばグレンの手掛かりが手に入り、そうすれば、失踪事件に関連するであろう『エンティティ』のことも分かるに違いない。
昨日と同じ時間、同じ場所に車を走らせるとすでにメアリーが待っていた。はしゃぐメアリーを助手席に座らせ、行き先を尋ねると「廃坑よ」と告げた。
「廃坑?なんだってそんな場所に」
「あたしね、都市伝説がすきなの。おじさんは聞いたことない?廃車場の幽霊とか、沼の人食い少女とか」
聞いたことがない、というと嘘になる。なぜならロバートは警官時代にその事件を知っているからだ。しかしそれらは事実ではなく、いずれも元あった事件を面白おかしく湾曲したような内容だった。
返事をどうしようか迷っていると、メアリーは気にもせずに地図を広げている。そして、あるページをロバートに開いて見せた。
「ここ。『マクミラン邸』よ。もうとっくに閉鎖されてるけど、肉切り包丁を持った大男が今も徘徊しているんですって……」
「バカな。そこは――」
マクミラン邸。過去におぞましい大量殺人事件があった場所。そこで働いていた炭鉱夫およそ100人が坑道に生き埋めにされ、更に彼らの雇い主であるアーチー・マクミランが地下室で死体となって発見されたという未だ謎の多い事件が起きている場所である。
いや、そんなことはどうでもいい。
「そんな血生臭い事件なんて、子どもが調べるもんじゃない」
「いいじゃない、趣味なのよ」
「ああこれが博物館行きだったら喜んで行くさ。だが君がやろうとしているのはたちの悪いイタズラ、おまけに不法侵入だ」
「じゃあやめる?」
ぐ、と喉が詰まる。
「……入り口までだ」
「ありがとうおじさん!」
深く息を吐いた。
車は暮れなずむ住宅街を抜け、徐々に郊外へと走る。家の数が減っていき、景色は山がちとなっていった。
「メイヒューさんちのこと、どのくらい知ってる?」
それまで景色を眺めていたメアリーが、不意に言った。その物言いはどこか引っかかる、と思いながらも「大して知らない」と答えた。
「メイヒューさんね、昔はあんなじゃなかったの」
「……どういうことだ?」
「グレンのおとうさんが死んじゃってから、メイヒューさん、変な宗教の話するようになったの」
脳裏を、記憶が駆け巡る。図書館で調べたあのページ。グレンの部屋に刻まれた、蜘蛛の足のシンボルマーク。ジョンの言葉。「信仰している奴らがいる」。
「どんな話だったか覚えているか?」
「うーんと……生き返り?とか、イケニエ、とか。なんのことかよく分からなかったけど」
「その宗教の名前とか、聞いていないか」
「なんだったかしら……そう、『霧の森』って言ったわ」
――死後、我々は『霧の森』に誘われる!
これで、ようやく点が線で繋がった。
ベティ・メイヒューはやはり『エンティティ』を信仰している。恐らくは亡くした夫を蘇らせるために『霧の森』に入ったのだろう。であれば、グレンは生贄だ。隠されたシンボルマークがそれを意味しているとするなら、グレンは『霧の森』の奴らが誘拐したのだろう。ではなぜベティが捜索依頼を?そこがまだ引っかかるが――
「もうそろそろよ」
いや、今は『霧の森』を追うことだけ考えればいい。ともすればこの失踪事件に娘が関わっているかもしれない。まずは解決すること、それが先決だ。
居住まいを正し、ロバートは山道に入る。時刻は夕方をとうに過ぎ、青白く浮かび上がる夜となっていた。狭い山道をしばらく進むと、ボロボロに朽ちた看板に行き当たった。
「マクミラン・エステート……ここだわ」
ロバートは車を止めた。
懐中電灯を持って車を降り、助手席のドアを開けてやるとメアリーがぴょんと飛び降りた。
「ねえ見て!鉄格子よ」
枝に隠れてよく見えなかったが、ロバートの背丈すらもゆうに超える大きな鉄格子が立っていた。長年入り口を塞いでいるのだろう、錆びた太い鎖が幾重にも巻き付いていた。
「すごいわ、こっちもぼろぼろ。この奥が炭鉱かしら」
背を伸ばしたりかがんだりして、メアリーはなんとか奥を覗こうと必死になっている。
「約束だ。入り口までだぞ」
「もうちょっと、もうちょっとだけ!」
「こんな時間なんだ、これ以上は君の親御さんになんて説明すればいいか分からない」
「構いやしないわ。親なんていないもの」
「は――」
「あ!ここ、見て!穴があるわ!」
「おい、メアリー!」
「ちょっとだけ中を見てくるわね!」
「メアリー!!待て!!」
静止する声も振り切り、メアリーは鉄格子の隙間にするりと体を滑らせ、暗闇の中に入り込んでしまう。慌てて後を追うも、ロバートの体ではこの穴をくぐれない。がしゃん、と鉄格子を握る音だけが鳴り響いた。
(さっき、彼女はなんて言った?メアリー、親がいない?)
孤児ということだろうか。それでも学校に通っている以上は施設で暮らしているはずだ。その、施設すらもメアリーを気にかけていないのか?その上友人のグレンまで失って?
メアリー、メアリーは、娘に似ているのに、
(追いかけよう)
ロバートは鉄格子を掴み、何度か揺らしてみる。すると何本かの格子が錆びて脆くなっていることに気づいた。躊躇なく、ロバートは格子を蹴り壊す。派手な音を立てて格子が倒れ、なんとか潜れそうな隙間ができた。懐中電灯を構えて奥に進んだ。
中は荒れていた。最近人が立ち入った様子もほとんどなく、足元はぬかるんで歩きにくい。しかしそのためか、今しがた付いたばかりの小さな足跡が点々としている。これを辿って行けば間違いはない。
木々はより鬱蒼とし、明かりがなければ自分の手のひらも見えない。幾分か進んだところでぽつ、と鼻先に雫が滴った。いよいよ雨が降ってきたらしい。酷くならないうちにメアリーを見つけなければ。
かろうじて道と言えるものを進んでいると、やがて開けた場所に出た。そこには一軒の家屋があった。いや、これこそ坑道の入り口だろうか。朽ちかけた木造の建物はトンネルのように構え、周囲には石炭が積み込まれたままのトロッコが散在している。建物の背後には掘り出した石炭を運ぶのだろう大きな昇降機がそびえ立っていた。いずれも人の気配はない。しかし、足跡はここで途絶えている。この建物にメアリーが入り込んだ可能性はあるだろう。ロバートは辺りを慎重に照らしながら、建物に入る。
坑道の入り口を守るためのもの、それ以上の役割がないためか奥行きはなく、すぐ地下への道に行きあたった。懐中電灯で奥を照らすも、道が曲がりくねっており光が届かない。入ってみるほか確認する術はないだろう。
喉を鳴らし、足を踏み入れる。冷たく湿った風が足を撫で、背筋を凍らせた。螺旋階段のように掘られた道を進んでいると、やがて幾許か明るい、広い空間に出た。
異様な光景だった。
空間は一つの部屋のように板張りがなされ、床には大量の蝋燭がひしめいている。そのいくつかにはまだ火が灯っているようで、心許ない光を揺らがせていた。そして、何より異様なのは部屋の中央にあった。
金属製の太い柱があった。それは天井付近で四方に枝分かれ、折れ曲がった先には大きなフックがぶら下がっている。まるで、肉をぶら下げるためのような。
目眩がした。
その拍子に壁に手をついたとき、ざらりとした感触に慌てて手を引っ込める。明かりで照らせば、そこには、無数のスクラッチマークが、蜘蛛の足のように描かれていたのだった。
喉がひりつき、胃の中から何かが込み上げる。生唾を呑んで押し留め、したくもない推測が立ちあがった。
ここは『霧の森』の儀式場。ここで犠牲者を殺し、生贄にするためのものだ。その先はもちろん、主である『エンティティ』に。
――、
上から複数人の足音が聞こえた。まずい、と慌てて当たりを見回し、咄嗟に反対側の通路に身を隠した。幸いにも岩が突き出ており、屈めば全身が収まりそうだ。明かりを消して息を殺す。
やがて、3人の人影が降りてきた。彼らは全身を黒いローブで包んでいたが、頭だけはそれぞれ意匠の違う奇妙なマスクを被っていた。木でできた仮面、動物の頭蓋骨、不気味な笑顔を模したマスク。間違いなく『霧の森』の信者だろう。
そのうちの一人は、なにか荷物のようなものを肩に抱えている。目を凝らして、心臓が鳴った。
メアリーだった。
ぴくりとも動かない。死んでいるようにも眠っているようにも見える。じっとりと汗が噴き出した。それなのに体は動かず視線は釘付けになった。
信者たちは何語ともつかない言葉を発しながら大きく手を振り、言葉が途切れると肩のメアリーを担ぎ下ろした。その瞬間、メアリーがかっと目を見開き、恐怖に満ちた表情でなにか叫ぼうとして、そして。
「ああああああああああああああああ!!!!」
絶叫が、坑道に響き渡る。びりびりと鼓膜を震わせて脳を揺さぶった。メアリーは、体に突き立てられたフックから逃げようともがいている。短い悲鳴が喉から漏れ出、体がしなる度にぼとぼとと血が滴った。鉄のような生臭さが部屋に充満していく。
(逃げなければ、)
奴らはまだこちらに気づいていない。逃げるなら今だ。ロバートは徐々に後退って
「また置いていくの」
がちゃん、と派手な音を立てて懐中電灯が地面を転がった。すぐさま信者たちがこちらを向く。ロバートはなりふり構わずに走り出した。とにかく奥へ、地上へ、奴らから逃れなければ、背後から足音がする、うるさい、異臭がする、湿った風が、なぜこんな、苦しい、息が、早く、早く!!
そのとき一筋の光が目に入った。
「っは、は、――」
焚き火が、あった。
そばには切り出された丸太が一本、イスのように横たわっている。しかし人の気配はない。なぜこんな場所にと訝りつつも、この薄暗い森で灯った光は少なからずロバートを安心させた。出てきた坑道の穴を振り返り、足音が聞こえてこないことを確認すると、ゆっくりと丸太に腰掛けた。雨もいつの間にか止んでおり、焚き火がぱちぱちと鳴るだけの静かな景色だった。
――また置いていくの
あの時、声がすぐ側で聞こえた。メアリーのものではない、少女の声。聞き覚えがない。いや、あるかもしれない。どこだったか、確か、警察官時代に聞いたような気がした。思い出せない。思い出せないのに、なぜか胸の奥がざわついている。また、と、置いていく、という言葉も気にかかった。まるでこれまでにも誰かを見捨てたことがあるような、そしてそれを知っているかのような。
深く息を吸い、吐き出した。
夜霧で肺を満たすと、幾分か頭が冴えてくる。そんなことよりも、今はここを抜け出すことが先決だ。幸運にも『霧の森』の居所も突き止めることができた。この情報を持ち帰り、ジョンや馴染みの警官に経緯を説明すれば動いてくれるだろう。今までの行方不明者――犠牲者も、きっとこれに結びつくはずだ。いなくなった娘のことも、何か分かるかもしれない。
ふっと脳裏にメアリーの姿が過ぎる。もしや娘もあのように。
いや、とロバートは首を振った。そうと決まったわけじゃない。だいたい自分はそんな宗教のことなど知らないのだ。何にでも関連付けていてはきりがない。
カァ カァ
ぎくりと肩が跳ねる。ふと気づくと一羽のカラスがそばにいた。まるでこちらを窺うようにじっと見つめたあと、カァと短く鳴いて飛び去って去ってしまう。
「ま、待ってくれ!」
一人きりの森で初めて出会った生き物を追いかけたい気持ちになった。ロバートはカラスが飛んで行った方向に向かって走りだす。徐々に霧が濃くなっていく。それでも薄暗い森を懸命に走った。
走って、走って、どのぐらい進んだか分からなくなった頃、なにかの物音を聞いた。走るのをやめ、音に向かって歩き出す。それは、何かの機械音のようだった。ガチャガチャという無機質な金属音。森の中とは似つかわしくないそれに訝っていると、木々の途切れ間に音の出処を見つけた。
そこには、車のエンジンよりも一回り以上大きな発電機のようなものと、それを一心に操作している一人の若い男がいた。無造作に伸びた黒髪、くたびれた緑色のパーカーからはまるで世捨て人のような雰囲気をまとっていた。
突然として現れた見知らぬ光景に呆然と立ち尽くす。すると男性がくるりとこちらを向いた。
「おい、あんた。手伝ってくれよ」
もしや彼も『霧の森』の関係者か。
そう思うと上手く声が出せない。しかし、男はなにか思い当たったようにああと言った。
「『新入り』か。成る程な」
「……新入り?」
「この森に来るのが初めてなんだろう。ルールもよく分かってなさそうだしな」
「ルール……?さっきから何の話をしているんだ、ここはマクミラン邸の鉱山じゃないのか!?」
「おい、おっさん」
男がロバートを睨みつける。その表情からは、怒りと、焦りのようなものが伺えた。
「あんただってここから脱出したいだろ。そのためには、嫌でも、ワケが分からなくても、手伝わなきゃいけないんだ」
「何のために……」
そう問いかけると、男は忌々しそうに吐き捨てた。
「エンティティ」
ぞわり。
肌が粟立った。
その瞬間にロバートは自身の心臓がどくどくと脈打ち出したのを感じた。徐々に、徐々に、鼓動が大きくなっていく。一体、なんだ。この感覚は。まるで腹の底が振動しているかのようだ。じっとりと背中が汗ばんでいき、ある感情が湧き出すのを感じる。
それはまさしく、純然たる『恐怖』だった。
「何してる、早く隠れろ!」
男に腕を引かれ、ロバートは近くの物陰に身を潜める。それは建物の跡のような、朽ちたレンガの壁だった。暴れる心音を無理やり落ち着けて息を潜める。
やがて、それは姿を現した。
体躯はまだ子どものように小さい。しかしひどく痩せこけており、顔はまるで老人のように枯れ果てている。精気のない目は落ち窪んで、半開きの口からはひゅうひゅうと空気が掠れたような音を立てていた。そして、片手には木工で使うような大きなノコギリ、左手で何かを肩に抱えながらゆっくりと歩いている。
抱えられていたのは、人間だった。
女性のものらしいうめき声を上げながら手足をばたつかせている。しかし老いた少年にふらつく様子はない。自分より大きな人間を運んでいるのにも関わらず、確実に地面を踏んでいる。
ずる、ずる、とゆっくり歩んでいた足は、やがてぴたりとある場所で止まる。そこには金属製の柱が一本。その先に、肉を吊り下げるためのフックがぶら下がっていた。
ロバートは思い出す。これは炭鉱の地下で見たものと同じだと。
女性がフックに吊り下げられ、耳を塞ぎたくなるような絶叫がこだまする。そのとき――奇妙なことが起きた。
ぎし、ぱき、
どこからか、関節を鳴らすようなクラック音がした。次第に音は大きくなり、霧の隙間からなにか燃えるような光が走ったかと思うと、ぬうと形を作って現れた。
黒く光る、巨大な蜘蛛の脚。それが、まるで鎌にように振り下ろされ、吊り下げられていた女性の腹に深々と突き刺さる。悲鳴もない。ぐちゃ、と肉を割った音がしたかと思うと、女性の体は蜘蛛の脚に運ばれて天に消えていき、重しをなくしたフックはガコンと地に落ちる。
現実のものとは思えなかった。呼吸すらままならない。夢ではないのか。だとすればひどい悪夢だ。こんな夢なら早く目覚め、一刻も早く、この病的な悪夢から逃れなくてはならない。気づくと一緒に隠れた男もいつの間にかいなくなっている。自分も早くここから離れなければ。
じり、と後ずさった足が砂を踏んだ。
――カァ!
カラスの羽撃き。心臓が跳ね上がる。老いた少年がこちらを向いた。
ロバートは、一目散に走り出した。少年が唸り声を上げながら追いかけてくるのが分かった。
何故。何故。何故。
頭の中にはその言葉だけがループする。
月明かり、照らし出されたあの少年が来ていた服は、『グレン・メイヒューと全く同じだった』。
「おじさーん」
足が止まりかけた。声は、その声は。
(メアリー……?)
「おじさん、来てくれたのね」
間違いない。あの少年の方向からメアリーの声がしている。信じがたい。しかし。
「約束だから教えたげる。グレンのこと」
ロバートはなお森の隙間を走った。
「グレンはね、あたしなのよ。いつもはグレンのなかにあたしがいてね、グレンが、わーってなったときにあたしが出てくるの」
ほんの少し背後を振り返ったが、またすぐに前を向く。
「わーっていうのは、グレンのお母さんがグレンにひどいことしたときね。おとうさんが死んじゃったのはグレンのせいじゃないのに、かわいそうなグレン」
ロバートは足を止めた。目の前に壁がある。分厚いレンガの壁が、森を横断するように聳え立っていた。なんとか登れないかと手をかけてみるが表面はどこも平らだった。切れ目を探す方が早い、と壁沿いに走り出そうとした。
「いなくなってから大事だったことに気づいたって、無意味なのよね」
目の前にメアリーがいる。入り口で別れたときと何一つ変わらない様子で、にこにこと笑っている。足は凍ったように動かない。
「ねえ、おじさんもあったんでしょ?大事なもの」
「何故それを、」
「この森ね、すっごく不思議でおもしろいのよ。ここにいたら色んな力がもらえるの。グレンも強くしてもらえたし、あたしもね。だからおじさんのことだって分かるの」
「おれは」
「ねえ。どうしてあのとき、置いていったの?」
――おとうさん!
記憶が蘇る。
日が暮れたばかりの道、土手を走る娘、笑い声、何よりも大事な、娘は、
娘がいなくなった。
ほんの一瞬目を離しただけだった。連日の徹夜でぼんやりしていた。いつの間にか声が途絶えていた。お気に入りのクマのぬいぐるみが川縁に落ちていた。拾い上げて川を覗いた。飛沫を上げて流れる川に娘がいた。どんどん流されていった。声も出なかった。それなのに、己の中に培われた刑事がこんなにもはっきりと告げている。
あれはもう助からない
バツン!
何かの機械音と共に周囲がほの明るくなる。その瞬間にロバートは走り出した。数秒遅れてメアリーが動き出したのも分かった。背後の気配がグレンのものに変わり、しゃがれた唸り声を上げながらノコギリを引きずって追いかけている。
やがてロバートの進路上に瓦礫の山が見えた。石炭やドラム缶などが雑多に積み上がっており、その中に木製の大きなパレットが立て掛けてあるのが見えた。そこに飛び込み、振り向きざまにパレットを引き倒した。差し迫っていたグレンにぶつかり、グレンは何かを叫びながら立ちすくむ。その隙にロバートは更に走った。すると、見覚えのある木造建築に行き着いた。坑道の入り口だった。躊躇する暇などない。入り込んで、中に積まれた石炭の山の影に身を隠した。
息を殺しているとグレンの唸り声が聞こえてくる。しばらく周辺をさまよい歩いていたようだったが、次第に気配が遠ざかっていくのが分かった。そこでようやくロバートは息をつくことができた。心音も落ち着きを取り戻している。
思考を少し整理した。メアリーと対峙していたときに点ったあの灯りは、さっきの男が発電機を動かしたのだと推測する。あの男は言っていた、この森にはルールがあるのだと。おそらくは、あの発電機を動かすことが脱出への糸口に違いない。
そろりと立ち上がって屋外に出る。霧が邪魔をして視界が悪いが、今のところメアリーもしくはグレンが戻ってくる様子はない。この隙にあの発電機を探すべきだ――としたところで、ロバートの耳は微かな物音を拾った。音を頼りにそちらへ向かうと、坑道入り口の裏手に少しだけ稼働している発電機を見つけた。上部にある4つのピストンのうち1つがゆっくりと上下している具合で、誰かが修理をやりかけたものだと伺える。
生唾を飲み込み、その発電機に手をかける。機械の修理など経験したことはないが、配線の色や部品の噛み合いなどから推察しつつ繋ぎ合わせていった。すると、少しずつではあるが上部のピストンが複数動き始めた。手順が合っていたことに安堵し、更に作業を進めた。
余裕が生まれたせいか、先ほどの光景が脳裏に浮かぶ。メアリーとグレン、吊り下げられた人間、蜘蛛の脚、そして、――大事なもの。
そんなはずはない、と首を振った。
置いていったりなどしていない。溺れてさえいないのだ。娘は誘拐された。親友のジョンが調べてくれたのだから間違いはない。そうだ、ここを脱出したらジョンに連絡をして、当時のことをもう一度詳しく教えてもらえばいい。そうすれば、メアリーの言葉などは虚構であることがすぐに分かるはずだ。
発電機のピストンは4つ目まで動き出した。それらが徐々に動きを早めるにつれ、緊張感も高まっていく。手汗が滲み、呼吸も浅くなりつつあった。脳内にはまだ吊り下げられた人間の映像がはっきりと浮かんでいる。そこにあの蜘蛛の脚が迫っている姿も。自分も、捕まったらあのおぞましいものの一部になる。首を振った。こんなところで捕まるわけにはいかない。娘の真実を知るまでは死ねない。他のなにを捨てたとしても、己の正義だけは捨てるわけにはいかないのだから。
ヴーーーーッ
最後の配線を繋げ終えると、けたたましいサイレンが鳴り響いた。発電機が点灯したことで周囲も明るくなり、より詳しく見渡せるようになる。木造建築から少し離れ、あのレンガ壁にもう一度近づいた。明かりが灯ったことでなにか変化がないかを観察する。と、数メートル先に光を反射する何かが見えた。慎重に近寄ってみれば、それはレンガ壁に取り付けられた大きな鉄扉だった。スライド式の2枚組で、向かって左側にレバースイッチのような機械がある。おそらくこれで開閉するのだろう。発電機はこれを動かすためののもか、と得心した。
ロバートはためらいなくレバーに手をかけ、下に引き下ろした。ギギギ、とレバーと連動し鉄扉が軋みだす。ややあってレバーの上部にランプが点った。ランプの数は全部で3つある。これが全て点灯するまでは開かないのだろう。早く開いてくれ、と祈るような気持ちでその瞬間をじっと待った。
――――!!
不意だった。人間の叫び声がどこからか聞こえる。ロバートの脳裏に、あの男の姿が浮かんで消えた。
そうか。自分が見つからずに修理できたということは、メアリーに見つかって追われていたのは。
身震いした。フックに吊り下げられ、あの悍ましい蜘蛛の脚が迫る光景が想起され――ふと思い立った。蜘蛛の脚がやって来る前に助け出すことができれば、あるいは男を助け出せるのでは、と。しかしそのためにはメアリーやグレンの目を掻い潜らなくてはいけない。そんなことが本当に可能だろうか。このまま脱出口が開けば確実に自分だけは助かる。出来るかどうかも分からないことで自らの命を危険に晒すのか?助けたところで、走れるかどうかも分からない男のために?あの醜悪な化け物と再び対峙するというのか?
ドクン。心臓が再び高鳴り始める。全身の毛が逆立つ感覚とともに焦燥感にかられた。本能的に悟る。あの化け物がすぐ近くにいると。死にたくない。死ぬわけにはいかない。逃げ出したい。こんな思いはもうたくさんだ。早く、早く開いてくれ、何があっても生き残らなくては、でなければ、
そうでなければあの日に見捨てた意味がない
ガラガラと音を立て、脱出口がゆっくりと開く。転がるようにロバートは中に飛び込んだ。脱出口の向こうは森が続いている。その先は濃い霧に包まれていて不明瞭だった。耳にはまだあの絶叫が残っている。それでもロバートは振り返らずに走った。ただ真っ直ぐに、ひどく呼吸を乱しながらも走り続けた。霧が濃い。月明かりさえ届かない。無慈悲なまでに暗い霧の森。その森が、不意に明るくなる。ロバートは、そこ目がけて走り込んだ。走って、走って、走り抜けた先にあったのは。
無人の小さな焚き火。丸太が一本、イスのように横たわる以外なにもない。ロバートが通り過ぎたときと、寸分変わらぬものがそこにあった。
――……
アパートの一室で電話が鳴っている。狭く、煩雑とした部屋。埃をかぶっているところから、少なくとも数年は空き部屋である。しかし電話のベルは鳴り続けた。やがて、ガチャリと録音に切り替わる。
「……ロバート?しばらく姿を見ないが、どうしてる?まだ『霧の森』を追っているのか?」
壮年の男の声だった。
「お前に、謝らなきゃいけないことがあるんだ……あの日、お前の娘がいなくなった日だ。本当は誘拐じゃない。溺れて、そして死んだ。お前の目の前で。死体も見た……本当にすまないと思っている。だが、嘘でも言わなければお前が耐えられないと思った。実際記憶がおかしくなっちまっただろう……『霧の森』という宗教団体がいることは事実だ。だが、娘の件とは何の関係もない。俺が、俺の罪悪感のために吐いたどうしようもない嘘だ……すまない、ロバート。ロバート……ロバート?」
ロバートって誰だ?
電話はそれを最後に、二度と鳴ることはなかった。