呼ばない声

 背中が、ぐうと熱くなった。次にやってきたのは鋭い痛みと、倒れたときの衝撃。はくはくと息を吐き、泥の匂いと鉄の匂いをいっぺんに吸い込んだ。冷たい。雪の冷たさで体が冷え、徐々に感覚が麻痺してくる。それなのに汗が止まらず、熱が出たように意識が揺らいだ。
 その私の頭に影が差す。見ないでも分かる、今回の相手だ。灰色のパーカーを着た殺人鬼、リージョンが、おどけたような仮面の下で私をせせら笑っている。

「あんた」

 リージョンが、かがみ込んで私を見下している。

「いつになったら俺のもんになるの?」

 ……ああまたか。
 頭痛がする。背中の傷とは無関係の、私の中を占拠し続ける鈍い痛みが。
 儀式で会うたびにこんなことを繰り返していた。全逃げだろうと全滅だろうと、リージョンは私に甘言を吐き出すのをやめない。何度断ったことかも分からないほどに。
 繰り返している。

「……しつ、こい」

 やっと吐き出した私の言葉に、リージョンは不愉快そうに鼻を鳴らした。

「強気なのはいいけどさ、自分の立場分かってんの?あんたが最後の一人で、近くにハッチもない、んで目の前にはおっそろしい殺人鬼がさ……」

 手にしていたナイフを見せ付けるようにもて遊ぶ。雪を反射して白く光るそれを、リージョンは私の頬に押し付けた。

「余裕なんか、ないんじゃないの?」

 押し付けられただけのナイフは、まだ切れない。けれど一瞬でも引けば、たちまち赤い傷を生むだろう。
 私の返答次第で。

「何度も、言うけど……年下には興味、ないし、そんなセリフ、誰にでも言うような、奴は、……嫌い」

 頭に衝撃が走る。リージョンが私の頭を鷲掴んで、無理やり顔を上げさせていた。
 仮面の奥で、野良犬みたいな目が私をにらみつけている。

「お前に拒否る権利なんかねえんだよ。なんなら今すぐにでも犯していいんだぜ。ええ?」

「…………は、そんなに、好かれてんだ」

 再び地面に投げ出される。はずみで口の中に泥が入り込み、げほげほと咳き込んだ。血の味もする。もうまともに息を吐くこともできない。
 いつもなら、このくらいで何も返さなかった。吊られるか失血死するかを黙って待っていた。関わることが、深入りすることが、私にとっての境界線だったのに。
 だけど、野良犬が子犬のようだと、ずいぶん前に気づいてしまったのだ。

「そうやって、……なんでも自分の、思い通りになるって……思っているんだね」

「……黙れ」

「暴れて、いれば、まわりはみんな、言うこと聞いて、くれていたんでしょう……」

「黙れ」

「子どもと同じ」

「黙れ!!」

 ぎゅうと身を硬くした。きっと蹴りの一つでも、リージョンのことだからすると思った。けれどいつまで経っても衝撃はやって来ず、沈黙だけが流れた。
 どうしてだろう。
 遊びのつもりならもっと乱暴にするだろうし、今の言葉で興味を失っていてもおかしくない。図星というなら尚のこと。
 もし。
 もしリージョンが、遊びのつもりではないのだとしたら。
 そう考えた時、切られた時以上の冷や汗が、私の体を支配した。

「……今回は、大人しく吊ってやるよ」

 ぐるぐると思考を詰まらせていると、ため息とともにリージョンが私を担ぎ上げた。

「けど、次に会ったら八つ裂きだからな。よく覚えてろ」

 そのまま、近くにあったフックに吊るされる。痛みはもはや感じない。しかし、私を見上げるリージョンを見ていたら、傷よりも重い頭痛がより一層ひどくなった。

「……なんで、」

 その時、ようやく涙がこぼれた。

「好きになっちゃったんだろう」

 蜘蛛の足が振り下ろされ、私の意識はそこで途切れた。

「……ふざけんなよ」

 リージョンは、フックの無くなった柱の前で座り込んだ。

「誰がどんな気で……クソ」

 仕舞い込むつもりだった。誰にでも同じようなことを言っていれば隠し通せると思った。だけどあの瞳の前では何もかもが筒抜けだった。
 それなのに、こちらは何も知ることができなかった。

「未登録名前」

 呼ばないようにしていた名前は、じわじわとフランクの内側を蝕んでいった。