ガラス玉の昨日

 ゲートが閉じる。最後の1人の背中を見送っていると、にわかに周囲から霧が引いていった。
 まるで、用済みだと、言われている気がした。
 ひと気のなくなったガス・ヘヴンに、再び静けさが戻る。あれほどいたカラスもいつの間にか姿を消して、音といえば僅かばかりの風で舞う枯れ草か、無人の店で鳴る入店ベルだけだった。

 エンティティに課された儀式をこなすことは、僕にとって唯一の救いだった。
 何もかもを無くした僕に、エンティティは役割をくれて、存在意義を作ってくれた。それは、僕にとって暗い夜に浮かぶ、それこそ満月のようだった。満月が照らす道を辿っていれば迷うことなんかない。だから僕はエンティティの言うことはなんでもやったし、それが僕にとっての救いだと信じていた。

 はずなのに。

 こうして逃げる生存者たちの背中を見つめていると、時々、あの日の記憶が蘇った。廃車の中に閉じ込められた男の、怯えきった表情。拘束を解いたときの金切声。逃げる背中――吹き出す血飛沫。
 あの時から、僕は何ひとつ変わってはいないのだろうか。
 そう考えて、首を振る。考えるのは苦手だし、殺人鬼にそんなものは必要ない。ただ僕は「レイス」でいればいい。それで十分なのだから。

 ガス・ヘヴンの建物に戻る。儀式のないときは自由に過ごしていいとされていて、殺人鬼の中には各地域を行き来する者もいる。僕は出歩くのはあまり好きではないから、いつものように自分の根城に戻っていった。
 だから、「それ」にもすぐ気づくことが出来たのだと思う。
 店内に入ってすぐの、散らかった棚。その向こう側から足が伸びているのに気づいた。白くて細い、おそらく女の子の裸足。僕はびっくりしてしばらく固まっていると、その足がもぞもぞと動いて引っ込み、やがて棚から顔がのぞいた。

「変わったお顔をしているのね」

 何のことだか分からなかった。しばらくしてから僕のことを指しているのだと気づくと、少しばかり苛立った。
 初対面の人間に、変わってる、だなんて。なにか言い返そうとして、しかし、長いこと使っていなかった僕の声帯は、野良犬のようにぐるぐると唸るだけで言葉にはならなかった。
 それを見ていた女の子は、ふふふと短く笑った。

「ごめんなさい、良い気持ちじゃないわよね。けど、わたし、そういうの好きなの。ひとと違うってところ、そのひとにしかないもの」

 この子には、僕が「少し変わった普通のひと」に、見えているらしかった。
 汚れた廃墟で、血と泥の匂いを放ちながら、およそ人間とは呼べない姿で立ち尽くしている僕を見て、彼女は、笑ったのだ。
 「変わったひと」だと。そして、違うことが好きなのだ、と。
 僕は、どうしても彼女になにか言いたくなって、思い切り息を吸い込んで、お腹のあたりが痛くなるのを手で抑えながら、唇を割った。久しぶりに動かす唇は、固くて、ぎこちなくて動かしづらかったけど、それでもこの女の子に伝えなければと思うと苦しくはなかった。不思議な心地がした。

「れ、い、す」

 女の子は、ガラス玉でできたみたいなきれいな瞳をまん丸にして、じっと僕を見た。

「そう、呼ばれ、る」

 ガラス玉が、ゆるやかな弧を描く。

「レ・イ・ス。レイスね、お名前も変わってるわ」

 今度は、嫌な気持ちにはならなかった。だって目の前のガラス玉が、こんなに嬉しそうに弾んでいる。
 そうしてから、ようやく僕は「この子はどこの子なんだろう」と思うに至った。

 彼女のことを尋ねると、未登録名前という名前以外なにも覚えていないのだという。ここに来る前なにをしていたかとか、どんなところで暮らしていたかとか、そういった記憶が完全に抜けてしまっているらしい。
 この霧の森に呼ばれた者は、例外なく記憶を持っている。殺人鬼でも生存者でも等しく同じ。それを根源として、個々の役割における能力になるからだ。
 それなのに彼女にはなにもない。とすると、なんらかの事故で霧の森に落ちてしまったのではないか。もしそうだとしたら、そのうちエンティティが排除するなり、元の場所に返すなりするだろう。僕からすることは特にないような気がする。

「どしたの、難しい顔をしてる」

 顔をあげると、ガス・ヘヴンのカウンターに腰掛けた未登録名前が、膝に頬杖をつきながらこちらを眺めている。どことなく退屈そうで、面白くなさそうな表情。まるで子どもみたいだな、と思うと少し愉快だった。

「ねえ、レイス」

「なに」

「おなかすかないの」

 へ、と息が漏れた。

「きみ、お腹すいたの」

「ううん、でも、なにか食べたほうがいいんじゃないかって思ったの。あなた、ひどく『痩せぎす』だわ」

 それは事実なので否定できない。けど、この森に来てから空腹というものを感じたこともない。過去は何度も、お腹と背中がくっつきそうな思いをしてきたというのに。
 あれ。
 なんだか、そう言われると、すごく寂しいことのように思えてくる。

「なにかないのかしら」

 未登録名前はぴょんとカウンターから飛び降りて、近くの棚を漁りだす。
 なにか、と言われてもここはガソリンスタンドで、しかも廃墟だ。食べるようなものはなにもないはず。

「……小麦粉があるわ。それからバター。砂糖もあるし、オーブンがあればクッキーができそう。ここってオーブンある?」

 どうして、一度も見たことがないものがここに。あるとすればエンティティが寄越したに違いないが、一体いつ?僕と彼女のやり取りを見てから?それなら、どうして彼女の存在を許している?
 様々な、本当に様々な疑問が浮かんだ。
 けれど、

「…………外にあるかも。捨てに来る人が、いるから」

 楽しそうな未登録名前の表情を見ていたら、もう少し、この疑問を晴らすのを先伸ばしにしたくなってしまった。

「そういうところなの、ここって。まあいいわ。動かせるもの探しましょう」

「あ、あぶない、から。僕が行くよ」

「言い出したのはわたしなんだから、わたしが行くべきだと思わない?」

「けっこう強引……」

 呆れたように言ったつもりだったのに、僕の耳ですらも弾んだようなトーンに聞こえるものだから、僕は彼女のペースにすっかり馴染んでしまっているようだ。 

 表にある瓦礫の山から比較的きれいなオーブンを拾って、店内のコンセントに繋いでみる。不安だったが電気は通っているようで、程なくしてオーブンが動き出した。ちょっと焦げくさいねぇなんて未登録名前が言うので、手先が器用なエンジニアの顔が浮かんだのだが、なんとなく彼女の存在を隠さなきゃいけない気がしてそうだねと相槌をうった。
 オーブンを温めている間に材料を混ぜて、こねて、小さなかたまりを天板に並べていく。彼女が丸めた生地と僕のそれとでは全然形が違うので、恥ずかしい気持ちになった。でも未登録名前は「食べちゃえば一緒よ。それにわたし、このかたち好きだわ」と僕が丸めたものを小さな爪先で撫でたので、恥ずかしい気持ちはなくなったけれど、なんだかくすぐったいような、変な感覚がした。
 温まったオーブンに入れて、焼き上がりを待つ。薄暗い店内でそこだけがぼんやりと明るくなり、それを2人でじっと眺める。こんなふうに何かを待ち遠しくなるのも、ずいぶん久しぶりな気がした。

「そういえば、クッキーの作り方は覚えていたんだね」

 焼き上げるまでの暇つぶしに、ふと思ったことを投げかけてみた。僕の喉もだいぶ慣れて、あまりつっかえずに話せるようになっていた。
 嫌味に取られないか少しだけ心配になったが、未登録名前はきらきらする目でオーブンを見つめていたので大丈夫そうだった。

「そうね、体が覚えてるみたいだったわ。手が勝手に動くの。きっとわたし、お料理がすきだったのね」

「じゃあ、このクッキーもきっと美味しいんだ」

「どうかしら。なにせ他のことはぜんぜん覚えていないもの」

「でも手際がすごくよかった。もしかして料理人さんだったのかも……」

「それはないわね」

 きっぱりと。
 記憶はないと言いながらも強い否定を感じさせる声だった。
 驚いて口を噤んでいると、未登録名前がぱっとこちらを向く。

「もうすぐ焼き上がりそう」

「う、うん。そうだね」

 オーブンに戻った未登録名前の瞳は、また子どものようにきらきらしている。

 古い廃車場。錆びた車。油のにおい。軋む金属。
 そのなかに、僕は立っている。手元の機械を動かして、古びた車をプレスにかけている。毎日同じ時間をかけて、同じ量の廃車を生み出していく。変わらない日々。それでいいと思っていた。変化なんて望まない。したらきっと戸惑ってしまうから。掻き乱されてしまうから。変わらないものが欲しかったから。
 だけど、ある日、いつもと違うことが起きてしまった。僕の上司が、いつもいばり散らしているだけの男が、手に、小さな――

 ガタン。
 大きな物音がして起きる。どうやら外で、何かが落ちたらしい。一体何が。ここには僕しか――いいや。
 はっとして辺りを見渡すと、向かいのソファに眠らせていたはずの未登録名前がいない。もしやと思って飛び起き、外に出る。

「未登録名前!」

 彼女は、細い、僕が登ったら折れそうなほど細い木の上に座っていたのだ。

「踏み台だったがらくたが倒れちゃって、」

 見ると、確かに小さめの冷蔵庫が転がっている。さっきのはこれが倒れた音だったのか……なんて、そんな場合じゃない。僕は冷蔵庫を立てて、しっかり支えた。

「未登録名前、危ないから降りてきて」

「大丈夫よ。木登り得意なの」

「枝が折れたらどうするの!お願いだから」

 必死さが伝わったのか、未登録名前はちょっと困った顔をしながらゆっくりと降りてきた。彼女の両足が地面につくのを見届けると、僕は深く息を吐く。それから、彼女がどこか怪我してないか見ていると「心配しすぎよ」と笑われた。
 どうして、未登録名前のことがこんなに気がかりなんだろう。昨日会ったばかりで、不思議な行動ばかりしているのに、なぜか目が逸らせない。きらきらする瞳が色んな形に変わるのを、ずっと見ていたいような気持ちになった。すっかり失われたと思っていた僕の感情というものが未登録名前によって揺すぶられる。レイス、というものはそこにはない。
 未登録名前の前では、うまく「レイス」でいられない。

「どうしてあんなところに」

 浮かんだことをかき消すように尋ねると、未登録名前は片手を差し出した。

「これがね、風に乗ってどこからか飛んできたの。それで木の上に引っかかって、どうしても気になったから」

 その手には一枚の紙切れが――いや、一枚の写真があった。ひどくぼろぼろで色褪せてしまっている、古いもののようだった。僕はずっとここにいるのに一度も見かけたことがない。
 誰が写っているのだろう、と写真を受け取ったとき、僕のお腹の底がかっと熱くなった。
 僕の上司だった。アザロフが写っていた。
 それだけではない。
 アザロフの隣に女性が写っている。顔はにじんでよく見えないが、まだ年若いのだろう。親子のように仲良さげに笑っている。
 どうして忘れていたんだろう。
 この子は、アザロフの娘。そして、名前は、「未登録名前」という。

「知っているひと?」

 肩が跳ねた。
 もしや、未登録名前には記憶があるのではないか。全部知っていて、父親を殺した僕を恨んでいるのか。僕の気を引いて弄んでいるのか。だとしたら昨日のクッキーは。
 けれど、けれど。

「レイス」

 心配そうに、僕の顔を覗き込んでくる。ガラス玉みたいなきれいな瞳。ふたつの輝き。見透かすように、映し出すように。見えないものを見るように。

「知ってる、」

 未登録名前は瞬きをひとつした。

「……気がするけど、思い出せないんだ」

「レイスにもあるのね、そういうの」

 じゃあわたしたち一緒ね、と未登録名前は言った。

 

 変わらないものが欲しかった。変化なんて望んでいなかった。このままでいいと、このままがいいと思っていた。毎日、明日に怯えて生きるのはもうたくさんだった。
 でも、僕は未登録名前と出会った。
 その日、アザロフは上機嫌だった。一人娘の手を引いて、見たことのないような笑顔を浮かべて僕に自慢してきたのだ。未登録名前は、初めて会う僕にも優しく話しかけてきた。

「わたしは未登録名前っていうの。あなたは?とっても背が高いのね、わたしこんなに大きなひと見たことない。素敵なことね。あなたにしかないものなんだわ」

 言われたことも、聞いたこともないような言葉たちを、未登録名前はいとも簡単に声にした。きっと僕みたいな人間が口にすれば薄っぺらくなるような言葉も、彼女が口にすれば本当にそうだと思わせるなにかがあった。
 それからいろんな話をした。料理を頑張っていることだとか、体を動かすのが好きだからよく木に登るとか、そんなありきたりな話でも、ガラス玉みたいにきれいに輝く瞳が楽しそうに弾むので、僕は飽きずに未登録名前の話をよく聞いた。

 変わりたい、と、そのとき初めて思った。彼女が言う「素敵」に見合うだけの僕になりたかった。今の僕ではその言葉が嘘になる。そんなことは悲しいから。せっかくもらったきれいなものを、彼女にしかないきれいな言葉を、僕は大事にしたかった。

 だから、許せなくなった。
 血の匂いがするトランク、縛られていた男を解放して、また倒れる、その向こう側から現れたアザロフ、僕は、衝動なんかじゃなかった、頭の中には未登録名前がいて、血と錆なんか関係ないみたいにきらきら笑っているのがこの男の娘であることが許せなくなった。

「あなたは」

 彼女は得意な木登りで、上からずっと見ていた。自分の父親が破砕機に放り込まれるのも、脊髄が引き抜かれるのも、その返り血を浴びる僕の姿も。
 僕は、血が滴り落ちる骸骨を投げ捨てる。

「未登録名前、僕は、」

 一歩踏み出すと、未登録名前は逃げるように体を縮こませ、更に上へ登ってしまう。僕は木登りが得意ではないから、その辺のガラクタを寄せて足場にし、未登録名前を追った。
 木はそれほど高くはない。木登りは得意じゃないけど、体は大きいから、腕を伸ばせば未登録名前に届く。そうして、あと少し。あと少し。あと少し。

 未登録名前が、飛んだ。

 地面を見る。しかし、そこには何もなかった。未登録名前の姿も、男の死体さえも。寄せたはずのガラクタも。何もない。
 そんなはずはない。あのとき未登録名前は確かに飛んだ。飛んで……そこからどうなった?未登録名前はどこへ消えてしまった?それとも僕が、アザロフと一緒に破砕機へ?いや、でも、未登録名前にそんなこと、僕が覚えているのは一人ぶんの、覚えているのは……覚えているのは。

 アザロフに娘なんていなかった。

「レイス」

 引き戻される。目の前には、テーブルに置かれたクッキーと、ソファに座っている未登録名前。ふたつのガラス玉で僕を写している。まるくて、きれいで、まっすぐな。
 僕は、ぎゅっと拳を握る。

「これは幻想なんだ」

 喉の奥が、ひりひりした。

「きみは本当には存在しないんだ。ここから逃げ出したいと、一瞬でも思ってしまった僕への罰だ。こんなしあわせは永遠にこない。夢にすらならない。そんなことは、ずっと分かっているのに」

 胸が苦しくて、声もかすれて、視界もだんだんぼやけてくる。だけどもう逃げるわけにはいかなかった。未登録名前は僕が生み出した幻で、その幻が霧の森で動いている。
 あの日から僕は何ひとつ変わっていない。
 同じ日を、同じ間隔で、同じ量だけ消化しているだけの、ただの殺人鬼であることを、僕は理解しなければいけばかったのに。

「わたしには記憶がないから、あなたの言っていることの半分も、たぶん理解できていないわ」

 まだそれを、と思った。でも未登録名前のほうを見ることはできない。あのきれいなガラス玉にきっと焼かれてしまうから。

「でもひとつだけ分かることがあるの」

 思考が止まる。

「あなたは、許されたかったんだわ」

 胸がじわじわと熱くなった。
 ずれていた歯車が噛み合わさるような感覚。僕が本当に望んでいたこと。変わらないものなんかじゃない。変わらなくてはならない。
 僕は、自分自身を、許してやらなきゃいけなかった。
 ぼたぼたと涙が溢れる。声もなく、瞬きも忘れ、膝の上で握られたままの拳をぎゅうぎゅう握る。

「未登録名前、……ごめ、ごめんね、」

 何を謝っているのか分からなかった。
 けど、これは罪悪感なのだろう。僕が生み出した幻想、勝手に作った存在への。
 そう、っと僕の拳を撫でる指がある。細く小さな指で、慈しむように何度も、何度も。手の甲を往復する。
 その感触に戸惑っていると、やがてその指は僕の腕へ、肩へ、そうして、僕は暖かい温度に包まれた。

「いいの。レイス、わたし、あなたのこと好きだもの」

 ――幻想なんだと、言い聞かせるのが苦しかった。
 僕は返事をするでもなく、目を閉じて、ただ未登録名前が与えてくれる温度を感じていた。

 次の日、未登録名前は僕の前から姿を消した。

 目を覚ます。なにか、夢をみていたような気がした。はっきりしない頭でなんとか思い出そうとしたけれど、ぼんやりした風景しか出てこなかった。その風景も見覚えのあるような、ないような、曖昧なものだった。
 起き上がって、開けっ放しだった窓を閉めに行く。外はすっかり真っ暗で、満月さえ浮かんでいた。少しだけのつもりがだいぶ寝入ってしまったらしい。無用心だから2階でも窓を開けたままにしないでと怒る親の顔を思い出した。
 窓枠に手をかけたとき、ガタンと音がした。外から聞こえたものだ。目を凝らすと、野良犬がゴミ箱かなにかを倒してしまったらしい。それにしても大きな野良犬だ。どこから来たのだろう。じっと見つめていると、犬が気づいてこちらを見た。灰色のような、黒色のような体毛。顔に変わった模様もある。満月の明かりが、犬の目を反射させて白く光った。

 わたしは、あの犬を知っている。

 犬が視線を外して歩き出す。薄暗い路地へ向かったのを見て、わたしは窓から庭の木に飛んだ。木登りは得意だった。こんなこと、するのは初めてだけど。わたしはよく知っている。
 親に見つからないようゆっくり降りて、犬の後を追いかけた。路地の先で犬が待っている。さらにその先で、きっと待っている。また泣いてはいないだろうか。今度こそ笑ってはくれないだろうか。そのときは、また一緒にクッキーを焼いて、取り止めもない話をしながら月明かりの下で眠ろうと思った。