『おはよう』

 人の心が海だと云うなら、きっとこの男の海は凍てついている。

 そう思ったのは三回目くらいに肌を合わせた時だった。男は恐ろしいほど美しく、女にやさしく、一度味わってしまえば引き返せないような底なしの魅力を持っていた。だけど私は見てしまった。行為のさなか、私を見る彼の目には誰も映っていない。打ち付ける熱とは裏腹に、どこまでも冷たい海のような目でどこか遠くを見つめている。魅力溢れるはずのこの男が、誰それに振られたとよく聞くのはこういったことが理由なのだろう、と、薄い意識の中でぼんやりと考えた。
 それでも私が男を振らなかったのは、その、凍てついた海の上で立ち尽くすような男の行く末を見てみたかったからだった。情愛よりも、あるのは好奇心と少しの憐憫。私は、男を――笹貫をもっと知りたかった。

「ごめん。別れよ」

 音を上げたのは、笹貫のほうだった。いつものようにアパートに行って、いつものように形だけの愛を浮かべて、そうして彼は絞り出すようにそう言った。初めて聞く声だった。

「わかった」

 笹貫はずっと顔を伏せていた。私が身支度を整えて、合鍵を置いて、「さよなら」を言ってドアを閉めるその時まで、ずっと、あの冷たい海が私を見ることはなかった。

 笹貫から誰それを振る、のは、私が初めてだった。

 というのは、別れて暫くしてから人づてに知った。知ったところでもうどうにもなりはしないけれど、あの凍てついた海に漂う男の何かしらの初めてに自分がなったというのは、なんとも言えず不思議な心地がした。
 笹貫に関する記憶は、そこで止まっていた。

 はずだった。

「……」

 私は、目の前に現れた男に対しぽかんと口を開くことしかできないでいた。
 これから冬に差し掛かろうという、午後の海。面した公園から手すりにもたれて、ぼんやりとそれを眺めていた。理由があったわけじゃない。たまたま通りががって、たまたま時間があったから、何とはなしに立ち寄った。それだけなのに。

「忘れちゃった?」

 男が事もなげに言う。
 まるで昨日会った友人に、分かりきった冗談を飛ばすような軽快さで。

「笹貫」

 その名を呼ぶと、笹貫は嬉しそうに目元を緩めた。さらりと流れた横髪から、見覚えのある緑のメッシュが覗いている。
 笹貫は、別れた時と何も変わっていなかった。

「久しぶり、元気してた?」

「まぁ……それなりに」

「たはは、警戒心丸出しってカンジ」

 それは、そうだ。あれから何年も経ってはいるが、私たちは円満な別れ方をしたわけじゃない。もっと言うと付き合っていた時でさえ、私達は空虚なやり取りしかしていない。薄っぺらで、中身がなくて、そんなどうでもいい会話と行為を繰り返しているだけの日々。楽しいとも、悲しいとも思わないような関係だった。

「オレはね、もう一度会いたかった」

 不意に、笹貫が言った。私は驚いて目を見開く。この、凍てついた海にいる男から、こんな感情のこもった言葉が出てくることが信じられなかった。

「……会って、どうするの。どうしたいの」

 笹貫はちらりと視線を逸らした。視線の先は、手すりをつかんだ私の左手。
 銀色の指輪が嵌った薬指。

「会いたかっただけ……って言ったら、信じてくれる?」

「ムリかも」

「たっはは、キミのそういうさっぱりしたとこ、変わってないんだ」

「そういう笹貫は、……変わった」

「そ?どんなとこ?」

 記憶を辿る。過去の記憶の笹貫は、もっと、

「あんまり笑わなかった」

「ふうん?オレ、けっこう人当たりいいねって言われるほうなんだけど」

「表面だけだったでしょう」

「……へえ?」

「怒った?」

「いや」

 笹貫は私と同じように、手すりにもたれかかった。

「そういうトコが、好きだったんだなーって」

 波の音がする。
 一定のリズムを、繰り返し、ゆったりと刻みながら、冷たい冬の風を乗せて二人の間を通り抜けていく。
 そうやって身を任せているうちに、ふと思い出す。

「告白したのって、どっちだっけ」

「ええ?それも忘れちゃったの。オレだよ」

「そうだっけ。笹貫って、自分から告白するタイプだった?」

「んー。キミが初めて、かも」

「知らなかった」

「言わなかったからね」

「笹貫から振るのも、初めてなんだって?」

「えー、それは知ってるんだ。でもそう、そのとおり」

「なんで振ったの?」

「それ、聞いちゃう?」

「昔の話でしょ」

「まぁ、ね。……そうだなぁ」

 笹貫は、もたれた手すりに肘をかけ、顎を乗せた。

「怖くなったから、かな」

「……何が?」

「キミが」

「どうして」

「好きだから」

 海が見つめている。

「キミが、好きで、好きで、たまらなくなって、怖くなった。だから、だったら自分から……」

 その瞬間、凍てついた海が融け出したのを確かに感じた。

「……知らなかった」

「言わなかったから」

 私は、ずっとずっと知りたかった。
 笹貫という男のことを知りたかった。
 その術を、どうして知ろうとしなかったんだろう。
 あれだけ交わしたはずの会話も。あれだけ重ねたはずの体も。今やなんの意味も持たない。それよりも、長い時間をかけて隔てられたこの距離から見る笹貫のほうが、ずっとずっとよく見えた。
 良く、見えた。

「オレ、もう行かなきゃ」

「どこへ?」

「遠いとこ」

「もう会えない?」

「会わないほうがいいでしょ。キミは」

 視線の先に光る銀色。

「けど」

「終わったんだよ、オレたちは」

 どこまでも優しく、冷たい言葉だった。

「……ごめん」

 自分でも、何に対する言葉なのか分からなかった。だけど、今、言わなければ一生後悔してしまうような、そんな気がした。
 俯く私に笹貫はからりと笑った。

「なーんで謝るの。むしろ悪いのはオレなのにさ」

「ちが、笹貫は」

「いいんだよ。キミはそのままで」

 そう言うと、笹貫は手すりから離れて私に背を向けた。

「さよなら」

 肩越しに一度だけ振り返り、それきり、笹貫が私を見ることはなかった。

「……終わったか」

 波の音も聞こえないほど離れた路地に差し掛かると、顔を隠したスーツの男が立ちふさがる。オレは両手を上げて頷いた。

「終わったよ。コレでぜーんぶ」

「そうか」

 短く言うと、男はジャケットの内側に手を入れ、それを取り出した。
 サプレッサー付き拳銃。
 その銃口を淀みなくオレの額に押し付け、撃鉄を起こす。

 こんな稼業をやっていれば、命なんていつなくなってもいいと思っていた。
 けど、最後にひとつだけ何かをしていいと言われ、ふっと思い出したのがあの子の顔だった。
 生まれて始めてオレから告白して、生まれて初めてオレから振った。
 その子が最初で最後だった。
 だから、もう一度だけ会いたくなった。一度だけで良かった、はず、なのに。

 どうして最期になって、こんな思いが溢れたりするんだろう。

「次会うときは、『おはよう』って言いたいなぁ」

 男が引き金に指をかける。
 オレは、大きく息を吸って目を閉じた――

 ――ん、笹貫……?

 ――起きた?

 ――あれ、私……?

 ――どうしたの?

 ――変な夢、みた気がする

 ――へえ、どんな?

 ――笹貫が元カレの夢

 ――たはは、なにそれ。あ、そういえば

「おはよう。主」