あの日の陰よ安らかに

「バカッ」

 1階への階段を降り切ろうというところで女子とすれ違う。その子は片手で顔を覆いながら、ものすごい勢いで駆け上がっていった。後に残されたのは甘い香水の香りと、

「……やっぱ仁王か」

「プリ」

 階段の横、倉庫みたいになってるスペースで壁に背を預ける仁王がいた。状況からして、また女の子を振ったに違いない。

「んな長続きしないならやめときゃいいのに。懲りない女子も女子だけど」

「彼氏もおらん未登録名前ちゃんには分からん世界じゃけえの」

「余計なお世話だわ!」

 仁王とは、3年になって初めて同じクラスになった。正直言って詐欺師なんて言われてるヤツと関わりたくはなかったが、話してみるとこれが意外なほど面白く、今では同じテニス部の丸井を交えて軽口を飛ばす間柄である。人は見かけによらないものだ。

「気にしとるんなら、作ればええに。俺とか」

「目の前でポイ捨てする奴が言うセリフか」

「未登録名前ちゃんなら捨てんよ?」

「何度目だ仁王」

 男が小首傾げたってひとっつも可愛くないし何十回同じセリフ言えば気がすむんだ。それに対して私の答えはひとつきりと決まっている。

「私はね、移り気は嫌いなの」

 例えまだ付き合ってないとしても、過去に浮気だのしてるようなヤツは信用出来ない。ポイ捨てなんか以ての外。
 付き合ったら、私だけ見ててほしい。私はきっと欲張りだから、私がそうするように相手にも求めてしまう。自分で分かる。重たい、束縛、我儘だ。
 だから仁王の彼女なんかなれない。自由であるのが仁王だからだ。

「未登録名前子」

 じゃあと立ち去ろうとして、腕を掴まれる。いつもと違う真摯な声に驚いて見上げれば、仁王はじっと私を見つめている。

「俺は、捨てん」

 その瞳には色がない。

「未登録名前なら、絶対に」

 緩まない手。震えているようにも見える唇。その一つ一つを確かめて、詰まりかけた息を大きく吸う。

「……どんどんヘタになるね、その詐欺」

「プピーナ。つまらんのう」

「つまってたまるか、そんなネタが」

「ならどんなネタならいいかの」

「振るな。そもそも振るな」

「未登録名前ちゃんが焦ったところみたーい」

「うぜえ!」

 スパーンと仁王の腕を振り払い、私は小走りで逃げ去る。

「じゃあね!次の彼女は泣かさないでよ!」

 返事を待たず、私は走った。鼓動が早いのは急いでいるからだと言い聞かせ、見えないふりをした。
 次の彼女。自分の言葉が、痛かった。

 ずる、と壁にもたれて座りこむ。触れた手のひらがやけに熱く、逃したくないばかりに顔に当てた。
 こんなにも心から欲しいと思える女に出会うとは誰が予想できただろう。胸の奥が焦げ付いて、喉がヒリヒリと焼けそうだ。だが覆水は返らない。自分で掘った穴だ。それなのに俺の心臓は早鐘を打つばかりで、見て見ぬ振りも出来ないほど、痛みを増していくだけだった。