わたしが人魚になった日

「きみ、そこで何してるの?」

振り向いた先には、金髪碧眼の少年が立っていた。
わたしは視線を海に戻してから答えた。

「海を見ているの」

「それだけ?」

「それだけ」

他になにをしているように見えるというのだろう。
少年はわたしの隣に当然のように座って、同じように海を眺め始めた。

「なにか辛いことでもあったの」

よくもまあ初対面の人間にそんなことが聞けるわね。
わたしはすこしむすっとして答えた。

「ないわ」

無視すればよかったかもしれないが、遅かった。

「じゃあ海が好きなだけ?」

「いいえ」

「え」

「海は嫌いよ」

海がきらい。そう言うと、大抵の人は珍しがる。大抵、といってもこの島にいる人間は少ないからそれが一般論なのかどうかわたしには分からないけれど。
でもきっとそうなんだ。その証拠にほら、少年が返事をしないでいる。
ややあって、

「嫌いなものを見るって、どんな気持ち?」

わたしは思わず少年のほうを見た。
少年はにこにこ笑っていて、わたしが驚いてることに気づいていないようだった。
そんなことを聞かれるとは思わなかった。
てっきり返事に困っているものだとばかり思っていたので、答えを用意していなくて、わたしは少し考えてしまった。
どんな気持ち。
考えたこともなかった。

「たぶん、嫌な気持ちになると思うわ。だって海が嫌いだから」

「たぶん、って。自分のことじゃないか」

「自分のことだからよく分からないのよ」

自分のことを100%全部知り尽くしてる人なんてきっといないわ。誰かが言ってたもの。
心って、思っているよりずっと複雑なのよ。

「きみって変わってるなあ」

笑いながら言うものだから、嘲笑されたのかと思ったけれど、そうではなかった。

「でも、そこがきみの魅力なんだろうね」

出会って間もない人間に、魅力がどうの、なんて話をされるとは。
わたしも変わってるかもしれないが、この人だって十分変わってる。
比べる対象がいないのが残念だ。前述の通りこの島には人が少ないから。

「で、どうして海が嫌いなのに見てるの?」

「……正確に言うと、海は見てないわ」

「じゃあ、なにを?」

わたしは腕を真っ直ぐ伸ばして、水平線を指差した。

「海の先」

なんの変哲もない、ただの線が横たわっているだけ。
でもわたしは信じているんだ。
この線を越えると、まだ見たことのない世界が広がっているって。
村の人に言うと、みんな口をそろえて「そんなものない」って言う。
マリンだけは、きっとあるよって言ってくれるけど。

「だから海が邪魔なの。嫌いなの。海さえなければ、どこへだって行けるから」

「なるほどね。……ねえ、僕がどこから来たか、知ってる?」

なぜそんなことを聞くんだろう。
この島にいる以上、メーベの村から来たに決まってるのに。
待って。
わたし、この少年のこと、知らない。
狭い村で、知り合いがいないってこと、ありえないのに。
海を見てるのに夢中で気づかなかった。
そうだ。わたしはこの少年を知らない。

「僕は、ここに漂着したんだよ」

ということは、やはり他の世界があるのだ。
長いこと繋がりがなかったこの島に見えた、一筋の標。

「じゃあ、あなたは知らせにきたのね」

この島の、閉塞の終わりを。
そう言うと、少年は笑って、

「そうかもしれない」

と言った。
実際、わたしは興奮していた。
このつまらないたいくつな世界が、華々しいものに突如変わった気がして、目の前がクリアになった気がして。
少年がとてもすばらしい存在のように思えたのだ。
少年はおもむろに立ち上がって、

「僕はリンク。きみは?」

「未登録名前」

熱に浮かされた頭で答えた。

「未登録名前。また会おうね」

わたしの視線はすでに、リンクから離せなくて。
彼が海岸を去るまで、ずっと、ずっと見ていた。

その日から、海岸に行くのが日課のようになっていた。
行けば、またリンクに会えるような気がして、わたしは夜になるまでそこにいた。
けれどあの日以来リンクに会うことはなかった。

なのにその日だけは、違った。

海岸に向かうと、リンクの後姿が見えた。
わたしは嬉しくなって駆け寄ろうとして、足を止めた。
一緒に、誰かいる。
あれはマリンだ。
とっさに、わたしはヤシの木の陰に隠れた。別に隠れることはないのに、なぜだかいけないものを見た気がしてしまい、そうするよりなかった。
会話が聞こえる。

「リンクを見つけたとき、私ドキドキしたわ」

「どうして?」

そうか、リンクを助けたのはマリンだったのか。

「この人は海の向こうから、なにかを告げに来たんだって」

それは、わたしが言った言葉よ。

「そうかもしれないね」

それはわたしに言った言葉じゃない。リンク。
わたしはもう、耳をふさいでいた。
その場にしゃがみこんで、これ以上何も聞くまいと。
あんなに仲のよさそうに話す二人に、割ってはいることはできない。
マリンがリンクを助けたのなら、なおのこと。
強い絆が、二人にはある。
わたしが入る余地なんて最初からなかった。
なのにわたしは。

二人が並んで海岸を後にする。
もう、耐えられなかった。
わたしは走った。海に向かって。
突然現れたわたしに驚いていた二人。
かまわずわたしは海に飛び込んだ。

ばしゃん

海の水は昼間だというのに刺すように冷たく、わたしの体にまとわり付いた。
口からごぼごぼと泡がでる。もう息がもたない。

ほら、はやくたすけてよ。わたしがおぼれているのよ。
ねえったら。どうしてたすけてくれないの。
わたし、あなたにたすけてほしくてとびこんだのに。
どうしてマリンとどこかへいってしまうの?
はやく、はやく、でないとほんとうにしんでしまう。
おねがい。おねがい。はやく、おねがい、

「早く!」

わたしは布団から跳ね起きた。
目からは涙がこぼれていた。
そう。あれは夢。でもどこから?
きっとわたしが飛び込むところから。
ほんとうは、木の下でずっと縮こまってた。
出て行く勇気なんてなかった。
すごすご家に帰って、布団に入って、泣いていた。

わたしはリンクのことを好きになってた。
けれど思いはもう届くことはない。

海は嫌い。嫌いよ。
でも本当に嫌いなのは、わたし自身だったことに、その時は気づかなかった。

(そんなことを話す子が、前にいたよ)
(あら、未登録名前のことかな)
(うん。すごく魅力的でね)

(僕は未登録名前のことを好きになってた)

Title:岩館真理子