「仁王君、あのさ」
帰り道、不意に立ち止まった未登録名前。その瞬間に俺は、ああまたかと思った。長くて三ヶ月、短くて一日。そのいずれも、今まで付き合ってきた女はこんな風に立ち止まって別れ話を切り出してきた。付き合ってなお女遊びをやめず、ろくに構いもしない俺に嫌気が差すらしい。俺としては彼女ヅラして逐一連絡をせがむほうがよほど鬱陶しい。
しかし、この未登録苗字未登録名前という女は、良くも悪くも空気のような女だった。俺がどれだけ遊んでいても文句は言わず、何度約束をすっぽかしても「そんなこともあるよね」と返す。学校でさえ会話することがあまりなく、会っても無言で隣にいる。俺の方がなぜ告白してきたんだと言いたくなるくらいに、未登録名前は空気のように振る舞った。
正直に言えばその空気感がとても楽で、だからこそ三ヶ月ももったのだと思う。だがそれももう終わりだ。まあいい加減飽きてきたところだし、次は誰に声をかけてやろうか。わざわざ声をかけずとも、勝手に寄ってくる奴は大勢いるが。だから、こいつに切られたとしても、何とも思わない。ああ、何とも。
「仁王君ってさ」
別れ話だと思い込んでいたせいか、続く言葉に目を見開く。まだ背中を向けたままでよかった。
「薄氷だよね」
「……何の話じゃ」
苛立ちを隠さない声にも、未登録名前は全く怯む様子がない。
「うすーい氷で出来てるよね。唇合わせても体重ねても、氷一枚分くらいの距離を感じるよ」
「そこはガラスじゃないんか」
「モース硬度でいえばガラスは5で氷は6なんだよ。ガラスよりもっと手強そうだもの」
「……氷のそれは-70℃のときじゃ。0℃で1.5程度にしかならん」
なぜこんな話をしているのか。未登録名前は理科に強かったか?と思い返したところで、そんな基本的なことさえ知らないほどに未登録名前との関わりが薄かったことに気づいた。
俺は、彼女のことを何も知らない。
「ならそれで正解だよ。仁王自身も薄氷で出来てる。絶対零度だよね。何ものにも揺さぶられないから。付き合って確信できた。そういう人もいるんだね」
「俺は、」
「じゃあ、さよなら」
「っ――!!」
振り返っても、未登録名前と視線は合わない。未登録名前はすでにこちらに背を向けていた。
いつからだ。女遊びをやめたのは。いつからだ。約束を守るようになったのは。学校ではあいつを探して、無言でいる居心地の良さを感じるようになったのは。
いつからか俺は、彼女を名前で呼ぶようになっていた。
(彼女がいう薄氷の意味が、恐ろしいほど理解出来た)