長いピンヒールが似合うねと言われた。
足がきれいだからよく映えるだろう、そう言ったのは付き合いたての恋人だった。何かのきっかけでそういう話になって、そしてそのまま近くの靴屋に入った。色とりどり、形もさまざまな靴たち。今まで選ばなかったもの。私が目を白黒させていると、恋人は真っ赤なピンヒールのパンプスを私の前に差し出した。おそるおそる足を入れ、立ち上がる私を見て、恋人はこう言った。
「きれいだな」
ばち、と目が合った。鮮烈な青色とふたつの緑がわたしを捉えている。呆けていると、目の前の青色はくつくつと笑った。
「名乗りもせず悪かった。オレはソニックだ」
ハリネズミ……なのだろう。長いハリにとがった耳、鮮やかなエメラルドグリーンの大きな瞳。カフェのカウンターに寄りかかって、わたしを興味津々と見上げている。
胸中でこぼした。ああまたか、と。
「あなたの相手をしてる暇はないわ。わたし、人を待っているの」
「Oh, そうだったのか。邪魔したな」
わざと突き放した言い方にも、彼は気を悪くした様子でもない気安さだった。だからこそ、余計に腹が立った。なんなんだいきなり、と。
「ソニックさんや、うちの店でナンパはよしとくれよ」
見かねてか、カフェのマスターが声をかけてくれた。まだ若い女性だが、一人で店を構えているだけあって周囲をよく気にかけてくれる。
「そんなつもりじゃなかったんだがなぁ」
「人当たりが良いからねぇキミは……あーそうだ」
「What?」
「エミーが来るって言ってたんだわ」
「No way! 早く言ってくれよ!」
「ごめーんすっかり忘れてたや」
「頼むぜまったく……じゃあな!」
言い終わるか否かのうちに、彼はピュンと風を巻き上げて走り去っていった。
なんてスピードだろう。本当に一瞬だった。瞬きをする間にもう姿がないなんて、一体彼は何者なんだろう。
「ソニック・ザ・ヘッジホッグ。ここいらじゃあ名前が知れてるよ」
呆気に取られているのを見てか、マスターが付け加えた。
「有名人?」
「そらもうむちゃくちゃに有名人よ。知らない?」
「全然」
「あらら」
「軟派な人だというのは分かったわね」
「うーん手厳しいなぁ……ところで」
マスターはカウンターに肘をつき、
「待ち人は来そうかい?」
視線が、伏せられたままの携帯電話に向く。ピクリとも動かない、静かなまま。
「……今日は、ダメみたい」
「そーかぁ」
気があるようなないような声で返事をすると、マスターはキッチンを片付け始めた。
「ピンヒールが似合う」というのは、初めて言われたことだった。
初めての言葉。今まで選ばなかったものたち。いままで誰の目にも留まることのないような私だったが、それは自分に新しい風を生み出してくれるような心地がした。
数センチ。ほんの数センチ高いところから見る景色は、今まで見たことのない全く別の世界のように見えた。その世界にたじろぐ私に彼がまた言った。「やっぱり、似合うなぁ」
声をかけられることが多くなった。長いピンヒール、真っ赤なルージュ、鮮やかに塗られたネイルはきっとよく目を引くのだろう。自分を飾るのは楽しいと思う。髪型と服の組み合わせを考えたり、季節によって違う色をネイルにしたり。新しい自分を少しずつ発掘していくような、そんな気持ちになれる。
それらを教えてくれた彼のことを特別に想うようになったのも、ごく自然のことだった。彼と一緒にいればどんどん新しい世界が見えてきそうで、楽しくて、きっと私はこの人と一緒に生きていくのだと、そう思った。
だけど。
目を覚ます。部屋の中は薄暗く、閉め忘れたカーテンの向こうは星が輝き始めていた。ソファから起き上がり、軋む背中をなんとか伸ばしながらローテブルに投げ出したままの携帯電話を見た。
今日は遅くなる
(今日「は」、ねぇ……)
通知画面に表示されたそっけない一行。既読を付けるだけで返事はせず、また携帯を伏せて目を閉じた。
「よ」
鮮烈な青。透き通る緑。まるでそうするのが当たり前みたいに、昨日のハリネズミはわたしに笑いかけた。名前は、そう。
「……ソニック」
「Yes! 覚えててくれてたんだな」
「店を変えるべきだったわ」
「そう言うなって」
笑いながら、彼はぽんぽんと隣の椅子を叩いた。なぜこんな態度が取れるのだろう。不思議でならないが、今から店を変えると昼休みの時間がなくなってしまう。仕方なく、わたしはソニックの隣に腰掛けた。マスターは接客中で、今日は助け舟を期待できそうにない。
ランチメニューを広げていると、不意にソニックが「そういえば、」と切り出した。
「Aランチが売り切れだって言ってたぜ」
「うそ、目当てだったのに」
このお店のランチはほとんどが日替わりで、そのどれもが美味しいから日々の楽しみになっていた。しかし、ないとあれば仕方がない。代わりにBランチのパスタを注文し、マスターが慌ただしそうに準備するのをカウンター越しに見ていた。
「雑誌かなんかに載ったらしいな、こんな反響あるとは思わなかったーってよ」
ソニックの言葉に周囲を見渡すと、確かにいつもより客数が多い気がした。
「そうなんだ。隠れ家的なお店だと思ってた」
「本人もそのつもりだったらしいぜ」
「でもまぁ、有名になるのは素直に嬉しいことね。ここ、美味しいもの」
「な。常連としちゃ嬉しいもんだ」
「あなた常連だったの?全然見たことなかった」
「Ah, 普段は色んなとこ旅してるからな。こないだ帰ってきたばっかりなんでね」
「それでか。じゃあ、これからはよく来るの?」
「そのつもりさ。アンタもよく来るんだろ?また会うかもな」
「そうかもね」
ふふ、と笑みをこぼすと、ソニックはきょとんとした顔になった。
「どうしたのよ」
「嫌がらないんだなーと思ってさ」
「嫌がる?」
「初めて会った時からさ、嫌われてるもんだと思ってた」
「ああ……」
言われてみれば、初対面のときは印象が悪かった。最悪だったと言ってもいい。
けど、今は不思議とそんな気持ちは湧いてこない。それどころか、少し、楽しいという気さえしている。自分でもよく分からない。でも、ソニックともっと話がしたいと思っている。
あれ、そもそも。
わたし、どうしてソニックのこと嫌ったりしたんだろう。最初にソニックに言われた言葉、それがなぜか私の胸につかえて苦しくなった気がする。その言葉は、――
「きれいだな」
どくり。
「え……」
「今日履いてる靴も似合ってる」
今日履いてる靴は、
「そう?ありがとう」
靴は、
「そういやアンタ、名前は?」
今日は、
「……未登録名前」
「未登録名前。また会おうぜ」
「ええ」
今日はヒールのない白いパンプスだった。
夜から雨が降りそうだった。外食するには不安があるものの、今日のほかに予定が合わない。洒落たレストラン。落ち着いた客層。正面に座る恋人の、慣れた手つきのフォーク。
「久しぶり」
困った様子で恋人が言う。
「久しぶり」
出来るだけ、色を消した。
「こういう店も久しぶりだな」
「そうね」
「ごめんな、最近忙しくて、なかなか会えなくて」
「……そうね」
知っている。
その言葉が嘘でないのを。彼は有名企業に勤めていて、芽を出そうと懸命になっている。毎日勉強をして、慣れない接待をしていることを。
知っている。
その中で、徐々に薄らいでいく感情があるといいうことを。
「わたしね」
びくりと、彼が肩を震わせた。
「ピンヒール、好きじゃなかったみたい」
彼の視線が私の足元に向いた。
「……そうか」
長く息を吐いて、目を伏せた。
「だから、さよなら」
立ち上がって、わたしは店を出ていく。最後まで彼は、私を見ることはなかった。
冷たい夜霧が街を包んでいる。風を切って進むたびに冷気が頬を撫で、首の後ろを通り抜ける感覚に身震いした。そのとき誰かの談笑が聞こえて、聞きたくなくて首をすくめた。
こんな寒い思いをしているのはきっとわたしだけなのだ。そんな錯覚をして、どうしてもいられなくて、私は足早に家に向かう。けれど長いヒールでは思うように走れない。カツカツという短い足音だけが、いやに反響しているように聞こえた。
がつ、と石を踏んだ。
地面に投げ出される。荷物が散らばって、擦り剥いた膝からは血が滲んだ。痛みを堪えて立ちあがろうとして、違和感を覚える。靴のヒールが片方だけ根本から折れていた。
目の奥がじんわりと痛み出す。歯を食いしばって堪えても、勝手に涙が頬を伝い落ちた。何か叫びたくて、けれど叫ぶ言葉が見つからなくて、嗚咽だけが喉から漏れる。
きっと間違いだった。最初から、全部間違っていた。それなのに、ばかな私はそんなことにも気づけなかった。
嫌いだ。ぜんぶ、なにもかも、派手なルージュも、おしゃれなレストランも、長い長いピンヒールも、みんな。
けれど一番嫌いだったのは。
「……未登録名前?」
俯いた視界に、赤い靴。
ゆっくりと顔を上げた。
眩いばかりの、あの鮮烈な青と緑色。
「ソニック……」
ソニックは驚いていた様子だったが、わたしの足と靴を交互に見て、すぐさま折れたヒールと靴を拾いわたしの腕を自身の肩に回した。
「っえ、」
「ちょいと歩きにくいと思うけど、我慢してくれよ。家は近いのか?」
「う、うん。でも」
「行くぜ。疲れたらオレの靴を踏んでいいからな」
腕を引かれてゆっくりと立ち上がる。ソニックに合わせて屈んでいるのでいつもより景色が低い。ヒールを履いていては、決して見えないもの。
「……わたし」
片足ずつ進む道。
「違う自分になりたかった。メイクをしたり、きれいな服を着たりしてると、今まで見えなかった自分の姿が見えるみたいで楽しかった。けど、それって」
ぽた、と、小さな雫が地面を打つ。
「間違ってたんだよね」
ぽた、ぽた、雫はいつしか数を増やす。雨が、少しずつ勢いを増した。
「オレは間違いだなんて思わない」
きっと。
ひどい雨になると思っていたのに。
「どんな姿も、それは間違いなく自分の一部さ」
雫は小さく地面を濡らす。冷たい、けれど透き通るような空気が頬を撫でた。
「ありがとう」
今のわたしは、初めて高いヒールを履いたときよりも不恰好に歩いていることだろう。誰かの手を借りて、低く屈んでよろよろと歩く。傷だってまだ痛むし、化粧だって雨で流れ落ちているはずだ。だけど、これからのわたしはピンヒールが似合わないと、そう思えることがなんだか誇らしくて、嬉しかった。