ルーク・ハントは緑の目

 参考書から顔を上げて、はぁー……と長いため息をついた。もうすぐ苦手な科目の小テストがあるので放課後に図書館で勉強をしていたのだが、これがちっとも進まない。我が寮ポムフィオーレの目指す美は外見だけではなく内面も磨くことにある、と掲げられており、私が敬愛するヴィル寮長もそれを体現している。だから小テストだろうと苦手なんて、言っていられないのだけれど。
 先ほどから2ページも進まない参考書を見て、もう一度ため息を吐く。
 もし、ルーク先輩だったなら。ヴィル寮長にも一目置かれるあの人なら、容易く解いてしまうのだろうな。羨ましいな、私もあんなふうになりたいな。勉強も、運動も、容姿も。もっと自信を持ちたいのに。そうすれば――

「っと、!」

 どさどさ、と背後で何かが落ちる音がした。驚いて振り返ると、男子生徒がいくつかの本を取り落としてしまったらしい。腕章を見るにハーツラビュル生だろうか。規律に厳しいリドル寮長に見つかったら、きっと怒られてしまうだろうな。

「……大丈夫?」

 気の毒になって本を拾う手伝いをすると、生徒は心底ほっとしたように「ありがとう」と言った。やっぱりリドル寮長はこわいんだろうな。
 本を集め終えて席に戻ろうとすると、あのと呼び止められる。

「もしかして、行き詰まってるのかい?」

「え?」

「長いこと難しい顔をしていたから」

 見られていたのだと思うと途端に恥ずかしくなり、視線を落としてしまう。それを見た男子生徒は小さく笑みを漏らし、

「もしよければ、教えようか?」

「えっ、いいの?」

「拾ってくれたお礼だよ」

「ありがとう。それじゃ――」

「ボンジュール!ご機嫌いかがかな」

 どくんと心臓が鳴った。一瞬で頭が真っ白になってしまい言葉を失う。

「こんにちはルーク先輩」

「何かあったのかい?」

「僕が落とした本を彼女に拾ってもらいまして。お返しに勉強を教えようかという話を」

「なるほど。それは良いことをしたのだね!」

 ルーク先輩に微笑まれ、つい視線が泳いでしまう。このままじゃ失礼だと、何か言おうとしているうちに先輩が「しかし、」と告げた。

「勉強は私が教えよう。キミのその本を見たところ、やるべきことがたくさんありそうだからね。それに、我がポムフィオーレの生徒が困っているならば副寮長として助けてやりたいのさ!」

「そう、ですか?それじゃあお礼はまた後日に」

「ちょっ、」

「本、ありがとう。助かったよ」

 生徒が立ち去る背中を呆然と見送る。まずい。どうしよう。まさか、あのルーク先輩に勉強を教わることになってしまうなんて。だって私は、ルーク先輩のことを尊敬していて。ヴィル寮長と同じくらい、いや、それ以上に、私はルーク先輩を。

「マドモアゼル、どこが分からないんだい?」

 ……こうなってしまっては仕方がない。できるだけ早く、というと少し失礼かもしれないが、とにかく憧れのルーク先輩と二人きりでいるというのは心臓がもたないので、申し訳ないが手早く終わらせてしまおう。
 暴れそうになる心臓をなんとかなだめて、先輩と向かい合って席につく。すると先輩がぐいと身を乗り出してきたので、反射的にのけぞってしまった。

「え、あ、すみません」

 先輩は、少しだけ驚いた顔をしていた。

「いや、こちらこそ。驚かせてしまったかな?」

 けれどすぐに微笑んでくれた。それが申し訳なくて、視線を落として唇を噛む。
 こんな態度を取ってしまってもルーク先輩は優しい。それが私にだけ向けられたものでないとしても。私には、嬉しかった。それだけでいいと、思っていた。ずっと、これからも。

「キミは」

 肩が震えたのを悟られはしなかっただろうか。

「な、なんでしょう」

「さきほどの生徒とは親しいのかい?」

 ルーク先輩は、美しい緑色の瞳で私を見つめている。

「え?いえ。さっき合ったばかりです」

「そうか。それは安心したよ」

 なにを。
 と、問いかける唇は人差し指で塞がれた。
 緑色は弧を描いている。

「有名な戯曲の言葉だ。知っているかな」

 私は戯曲に詳しくない。ルーク先輩がなにを言おうとしているのか分からない。だけど、なぜか、歪められた緑色からあの感情を痛烈に感じ取ってしまった。

「『緑の目は嫉妬の化け物』」

 その時初めて、私はとっくに逃げられないところに追い込まれていたのだと気づいた。