いらっしゃいませえ、と間延びした声の店員に案内され、奥の座敷席へと足を運ぶ。馴染みの蕎麦屋には既に待ち人が――いや、刀が、こちらに背を向けて座っていた。
「一文字則宗」
声を掛けても返事はない。
奴は、最後までこちらを振り返らなかった。
何度目になるだろう。このいやに急な階段を踏み、目を灼くような天蓋の下を歩く。回廊を辿り、中ほどまで進むとその部屋はある。掛け札に書かれた名前を見て、俺は一つ息をついて障子戸を開けた。
未登録名前は、相変わらず気だるげな表情で階下を眺めている。
「よう」
勤めて、明るく。俺は未登録名前のそばに寄る。
「……また、来たの」
その言い草はまるで通い始めの頃のようだと思い、俺は小さく吹き出した。
「なにを笑っているのよ」
当然面白くないだろう未登録名前は、ようやく俺に視線を向ける。本当に、会ったばかりの頃のような態度だ。……それが、彼女なりの『線引き』であるのは承知の上だった。
「いや、なに。あんたの横は居心地がいいなと思ってな」
逸らさず、逃さず。俺は真っ直ぐ未登録名前向かってそう言った。
「……馬鹿じゃないの」
言葉こそ、あの時のように素っ気ない。だが頬には薄っすらと紅が差している。俺はまた一つ笑って、未登録名前との距離を更に埋めてその頬を指の背で撫でた。
「な、」
面白いくらいに赤くなっている。まるで年若い少女のような反応だ。だが逃げる素振りは見せず、ただ驚いたまま硬直しているのを見つめていた。
きっと、俺は、あの時の審神者のような顔をしていることだろう。散々泣き腫らした後、ようやく上げた顔に浮かべた微笑みを。
「なあ、未登録名前」
呼びかけに、未登録名前は大きく肩を震わせた。
「な、に」
さあ。
決定的なひと言を告げるべき時だ。
「あんたを、身請けする」
息を呑む音。
「だ、れが」
「俺が」
「誰、を」
「あんたを」
唇を振るわせ、瞳には涙さえ滲んで。
未登録名前から、『正しい遊女の顔』が剥がれていく。
「な、んで……なんで!! あなた、本丸所属でしょ!? なのに身請けって、どうして……!!」
「主からの了承は得た。有難いことに、借金も少しばかりな」
「ちが、なんであなたがそこまでするの……? だって、だってわたしを身請けしたって、あなたは」
「そこまで、なあ」
自身の顎を摩り、これまでのことを思い返す。脳裏に浮かぶのは、いつだって未登録名前の、あどけなく笑った顔。
それが今後一生、一番近くで見られるというのなら、俺はそれでも構わない。
そう思うまでに、俺は彼女を。
「俺では不服かい?」
我ながら意地の悪い聞き方をしている。だが、未登録名前に受け入れてもらえるならこの際なんだって良かった。矜持も全てなにもかも、未登録名前の前ではどうでもよかった。
「そんなこと……」
ついに、未登録名前の瞳から涙がこぼれ落ちる。俺は彼女を抱きすくめ、親指でそっと拭ってやった。化粧が剥がれ、露出する地肌がなんとも愛おしかった。
「一つ、俺の我儘に付き合ってくれないか」
「…………なに」
なおも涙を溢れさせる未登録名前と、額同士をこつりと合わせた。
「最後にあんたを、抱きたい」
「……さい、ご?」
「ああ。これで最後だからな」
未登録名前の両目が見開かれる。
「あなた、まさか、」
「ああ、知ってるのか。流石は元審神者か」
「審神者にはなってない! ……けど、じゃあ、あなた」
「日付を跨いだら槍に戻る。誰のものでもない、ただの槍にな」
これは政府が定めた規約でもあり、主が提案したことでもある。
他の男士の手前、本丸で女と一緒に住まうことを許すことはできない。かと言って、主の霊力をもってして顕現しているこの身を宿したまま女の元にいることもできない。そうなると、残された手段はただ一つ。
顕現を解き、本丸からの登録を抹消し、誰のものでもない日本号になること。それが、彼女のそばにいるための手段だった。
「馬鹿じゃない……」
「何度聞いたかな、それも」
「何度だって言うよ……こんな、こんなこと」
「おいおい、俺の決断を『こんなこと』で済ますなよ」
「だって! 顕現を解いて、誰のものでもなくなって……それじゃ、わたしじゃあなたを顕現できない! わたしのとこにいても話せないんだよ! こんなふうに抱きしめたり、もう出来ないんだよ!?」
「だからこそ、だろ」
わざとらしく、首筋を撫ぜた。未登録名前はびくりと身を震わせ、二の句を失う。
「もう二度とこんなふうに抱き合えない。だから、最後に」
あんたの肌を感じさせてくれないか。
返事は待たなかった。いや、待つ必要はもうないと感じていた。引き合うように唇が触れ合い、そのまま未登録名前の背中を布団に押し付けた。
唇を離すと、うるんだ瞳が俺を見上げる。今にも泣きじゃくりそうなその顔が、愛おしくもあり寂しくもあった。かき消すようにもう一度口づけて、未登録名前の遊女たらしめる部分を一つ一つ引き剥がしていく。やけに重たい帯が憎たらしく思え、わざと遠くへ押しやった。
今この部屋にいるのはただの男と女だった。遊女も、刀剣男士も、なにものも俺たちを縛ることはできない。ただこの瞬間だけは、心は、どこまでも自由だった。
涙は、いくつか流していたかもしれない。だが後悔だけはしていない。たった一つの、心を揺らす存在に巡り会えたことこそが、この『日本号』の本懐とさえ感じていた。
全て覚えている。肌をなぞる感触も。髪が布団に散る音も。火傷しそうなこの熱も、色濃く交わる視線も、なにもかも。
カラン
時計の針が十二を過ぎたその時。
部屋に残されたのは一本の槍と、それを抱きしめて泣く女だけだった。
「……行ってきます」
扉を開けながら肩越しに振り返り、そう告げると足早に部屋を出ていく。俺は声にならないながらも、胸中では気をつけてな、と返した。
未登録名前は郭を出て、現世に戻ることを決めた。すると俺は槍の姿のままではいられないため、政府が用意している刀剣男士の変装具に形を変えた。変装具とは、武器を所持できない時代への遠征をする際、男士を帯刀できるよう用意したものだ。形は様々で、耳飾りや首飾り、根付などもあったが、未登録名前が選んだのは『簪』だった。意図するところはもはや聞くに聞けないが、あの日々のことをまだ覚えていてくれるというなら、俺にとってこれ以上の幸いはない。
本丸の数だけ、物語がある。そんな話をどこかで聞いた。昔の俺なら聞き流していただろうが、今ならその意味を噛みしめることができる。どれだけの本丸があるのかは分からないが、中にはこんな『日本号』がいたっていいだろう。
物言わぬ身となっても、どれだけ永い午睡になったとしても、心から愛するひとの側に居続けることを選ぶ『日本号』が。
――もし、もう一度会話をすることができたら。午睡のまどろみを受けながら、ぼんやりと考えた。
そうだな、なんて切り出すか。例えば、そう。
初めは単なる好奇心だった、と言ったら、あんたは怒るかな――
長い午睡のモノローグ 了