三枚目 篝火

 何度目かの夜だった。
 その日郭を訪れると、店が何やら騒がしい様子を見せていた。なにか問題でも起きたのかと思ったが、平素より豪奢な郭がより一層煌びやかに彩られているのに気づいた。何某かの祝い事だろうと思いながら受付を済ませると、いつものように未登録名前のいる部屋へと案内された。

「今日は随分と騒がしいようだが」

 酌をする未登録名前にそう尋ねると、すぐにええと返事が返って来た。

「今日はね、身請けされる子がいるから」

「へえ。どうりで飾りもんが豪華になってるわけだ」

「身請けは盛大にやればやるほど、その郭の箔がつくからね」

「なるほどな……」

「もうすぐ出てくるわ」

 そう言うと未登録名前は、障子窓を上げて階下を眺めた。それに倣うと、玄関口の広間に人集りが出来ていた。輪の中心にいるのは、あの山姥切長義だった。

「……身請け人って、あいつか?」

 俄には信じがたい光景だった。俺の本丸にも同位体がいるが、政府所属の監査官とあってこういった場所を利用するような性格には到底思えなかったからだ。
 驚き目を見張る俺を見て、未登録名前は薄く笑みを浮かべた。

「そうよ。あの長義、終身政府所属なのだけど、いつだかお偉いさんの護衛でやって来てね。その時指名された子とすっかり仲良くなっちゃって、それからずっと通い詰めていたのよ。健気よね」

「長義らしいと言えば、らしい話だな」

 もう一度、階下の山姥切長義を見る。店の主と何やら話し込んでいる様子で、真剣な――ともすれば、ある種の緊張感のようなものを湛えていた。
 不意に、篠笛の音が鳴った。それはやがて他の楽器とともに風雅な曲となり、階下の人集りが壁沿いに並び始める。山姥切長義は居住まいを正し、大階段に体を向ける。
 大階段から、一人の女がゆっくりと降りてきた。可愛らしいという形容詞が似合うような、まだ少女のようなあどけなさの残る女。明るい化粧を施したその表情は、『幸せ』に溢れていた。
 階段を降り切ると、女は長義の前に立つ。ややあって、長義が女に手を差し出し女はその手をゆっくりと握った。互いに言葉はない。だがその視線は何よりも雄弁にふたりの感情を示していた。

「あの子ね」

 不意に、未登録名前が言う。

「あたしの、唯一と言っていい友達だったのよね」

「……そうなのか?」

「ええ。はると言ってね。あの子も色んな事情があってここに来たのだけど、毎日泣くもんだから身の回りの世話をずいぶんしたわ。それからだんだん仲良くなって……」

 階下に向く未登録名前の目が、すいと細められる。

「良かったなぁ」

 その横顔は、今までに見たどんな女よりも美しい顔をしていた。

「なあ」

 語気が強くなったのは、己の気の所為だっただろうか。

「今日は延長を頼めるか」

 未登録名前はゆっくりこちらを向く。その瞳は丸くなっており、何度も瞬きを繰り返した。

「なんで……?」

 やっとのことで出てきた言葉に、俺は思わず笑ってしまった。

「なんでも何も、ここはそういう場所じゃねえか」

「けど、今まで一度も」

「気まぐれだ。それとも不都合があるかい?」

「……いえ」

「なら決まりだな。追加の酒を頼もうかね」

 しばらく呆然としていた未登録名前だったが、はっとした顔になり慌てて品書きの表を見せて寄越した。俺はその中からなるべく高いものを選ぶと、盃に残っていた酒をぐいと煽った。
 未登録名前は。
 何一つ諦めてはいないと思っていた。煙草もやらず、酒もあまり呑まず、仕方がないと言いながらも時折覗かせるあの瞳の奥にはいつでも意思が宿っていた。
 だが、あの一瞬。階下の後輩を眺める未登録名前の目に浮かんでいた感情を俺は悟ってしまった。

 諦念。

 脳裏に呼び起こされたのはかつての光景。一人の女と男が泣いている姿。それを後ろからただ眺めているだけの俺。
 あの時は、男がなぜそれほどまでに泣くのか、女が涙を堪えて笑っているのか分からなかった。身も心も痩せ細ってなお、二人が最期まで共にあることを選んだ理由が分からなかった。
 だが。今の俺にはよく理解できた。
 言葉などでは言い尽くせない。身体を使っても尚表せるものではない。それは心の内側で最も深い場所にあり、それでいて最も単純なたった一つの思いだった。

 ――チリン

 追加の酒もなくなろうという頃合、俺の腕に付けていた鈴が鳴った。
 これは男士がひとりで外出する際には必ずつけろと主から言われている術具のようなもので、揺すっても鳴らないかわりに主からの緊急呼び出しがある時のみ音が鳴るようになっている。つまり、いつもならとっくに帰っているはずの時間になっても帰らないことから、主が俺を呼び出しているのだ。

「ねえ、それ」

 未登録名前が心配そうに俺の顔を覗き込む。緊張が顔に浮かんでしまっていたらしい。俺は努めて笑ってみせた。

「――早く帰れって急かされてるだけだ、心配すんな。悪いが今日はこれまで、だな」

「悪いも何も……」

「さて、帰るとするかね」

 ゆっくりと膝を立ち上げると、未登録名前も慌てたように後に続いた。

 時間が遅いため通用門が閉まっているとのことで、未登録名前は従業員が使う勝手口まで案内してくれた。しかしそこへ行くには一度地下を通る必要があるらしく、いやに遠回りをさせる造りになっている。

「簡単に足抜けできないようになってるのよ」

 地下の仄暗い廊下の中、ごめんなさいねと未登録名前は眉をひそめて俺を見上げた。
 足抜けとは、簡単に言えば遊女の脱走である。遊女とは店に売られてきた女であるため、郭を出るには売られてきた金額分の年数を働き『年季明け』を迎えるか、別の人間に買われて『身請け』してもらうかしか方法がない。その年数や金額は各郭や遊女の地位によるものの、いずれにしろ気の遠くなるような時間が必要なのは確かである。過酷な日々を過ごしていれば、全てを投げ捨てて逃亡したくなる気持ちも理解できるというものだ。その逃亡が、たとえ――命を捨てた先にあったとしても。

「そろそろよ」

 未登録名前が手持ちの灯りを前方に向けると、急な作りの階段の上に一枚の引き戸が見えた。その階段の手前まで来ると、未登録名前はぴたりと足を止める。

「じゃあ、私はこれで。今日は延長してくれてありがとう」

 ちらと足元を見やる。遊女の靴は、ぽっくり下駄と呼ばれる歯のない下駄だ。加えて高さもあり、そう、簡単に――階段さえ上がれない。

「口実だ、つったらどうする」

 背を向けて歩きだそうという彼女に向けて、投げかけた。

「あんたと少しでも長くいるための口実だよ」

 薄い明かりに照らされた彼女の顔は、まるで少女のように目を丸くしていた。階下に投げかけていたあの視線とは違う、それはまるで、初日の夜に見せたあの表情。きっと、これが本当の、

 ――リン、リン!

 手首の鈴が、まるで急かすようにまた鳴り出した。俺は内心舌打ちをしながら、階段を登って引き戸に手をかける。

「また今度」

 背中越しに言い放ち、未登録名前の顔を確認する間もなく戸を閉めた。

「――日本号」

 本丸へ戻ると、玄関口で主が立っていた。その傍らには初期刀であり、この本丸で最初に極めた刀でもある山姥切国広も控えている。

「僕が何を言いたいか分かるね」

 両者とも面持ちは険しく、山姥切に至っては睨みつけているような目つきでさえいた。……そう思われても仕方がない。俺のやっていることは、とっくの昔に筒抜けだったのだ。
 主に嘘はつけない。
 俺は今日この日、その言葉をひしひしとその身に感じることとなった。