それっきり、本当に利用する気はなかった。個体差なのか『日本号』の気質かどうかは分からないが俺は元々そういった方面の欲が薄く、花街自体も顕現したばかりの頃に何度か行ったきりで随分と無沙汰だった。だというのに、何故あの時は訪れたのかというと……単純に、偶には違う酒が呑みたいと思ったからだ。万屋街にある居酒屋は大体廻ったし、かといって遠征や出陣ついでに酒屋へ、なんて暇はそうそうない。で、普段は行かない花街でなら違った酒が呑めるかなと踏んだわけだ。結局は万屋街と同じ空間――現世と幽世のはざまに位置するものだから並んでるものは殆ど同じだったが。
そんな理由だったものだから、花街に行くことはあってもあの遊郭には行くまいと、そう思っていた。
はず、だった。
場所柄、酒屋と花街への入り口は近くにある。そういった連中が集まりやすいから客寄せするには妥当だな。だからこそ、馴染みの酒屋へ寄った折にそれを見かけることになってしまった。
未登録名前だ。客らしい金髪の男と連れ立って、花街の入り口に立っている。男とは親しげに会話している様子で、しばらくしてのち手を振って別れた。二人とも、笑っていた。
「よう。しばらくぶりだな」
俺が声をかけると、未登録名前はぎょっとして目を丸くしていた。
「えっと……あなたは……」
そうだ、審神者でない一般人では本丸ごとの男士の見分けができない。当たり前の出来事が、この時ばかりは何故か無性に腹が立った。
「また、酒を呑ませてくれるかい」
そんな感情を押し殺し、以前と変わらぬ態度を装うと、未登録名前はようやく合点がいったように「あ」と声を上げた。
「もの好きの日本号だわ」
「そりゃ随分な覚えようだな」
「だってそうとしか言いようがないもの。あたしたちからはどこの本丸のものかって聞いちゃいけないのよ」
「へえ、そんな決まりがあったのか」
「そうよ。だからあなたも、覚えて欲しいなら目印でも付けてきて」
「目印、ねえ……必要なほど『日本号』には指名されるのかい?」
「……いいえ。あなたしか」
「なら要らねえな」
「でっ、でも! 他の子のお客様かもしれないし――ちょっと、話聞いてるの!?」
「ああ。あんたを指名した後でたんと聞いてやるよ」
この日はまだ酒を入れていない。だというのに、俺の心持はすっかり上向いていた。
「本当に……勝手な槍」
初めて会った時と同じ言葉を、同じ表情で未登録名前は言った。
もうあの遊郭には行くまいと立てた誓いも、先ほど男と連れ立つ未登録名前を見たときの感情も。信乃を見ていたら何もかもがほどけて消えていくような気がした。
未登録名前が勤める遊郭――
「遊郭の主人が派手好きでね。見た目にはとにかく拘ったみたい」
正直悪趣味よね、と未登録名前が笑う。
「へえ……こんな所に毎日居たら感覚狂いそうだな」
「あたしも同感」
そんな他愛無いやり取りを交わしながら、互いに盃を傾けた。今日の酒は、まろやかな口当たりがした。
「なあ」
その心地よい感覚に当てられたのかもしれない。
「なあに?」
「あんた、なんで遊女になったんだ?」
答え難いなら無理には聞かないが、と付け足すも、未登録名前は思いの外さらりと言う。
「よく聞かれることだから、構わないわ。――あたしはね、審神者崩れってやつなのよ」
未登録名前は語る。
物心つく頃には母親しかおらず、その母も学生時代に亡くなったこと。金に苦労し、地を這うような生活をしていたこと。そんな折に審神者の適性ありとのことで養成校に入ったものの、登用試験で不合格になり、残ったのは学費と生活費のために借りた多額の借金だけだということを。
「他の道を選んでいる余裕なんかなかったわ。特別な力があるでもない、特段頭が良いわけでもない。あたしができるのは、このくらいよ」
「適性は、あったんだろ? 試験を受け直すとか」
「それこそ無理よ。先立つものがないんだもの」
「……遣る瀬がねえとはこのことか」
「あら、憐れんでくれるの。優しいのね」
「いや、……」
「いいの。男士と触れ合えるこの場所は、嫌いじゃないから」
「そうかい……」
ぐ、と盃を傾ける。空になったそれに気付いた未登録名前は何も言わずに徳利を差し出した。注がれている間ちらりと彼女の盃を見たが、まだ半分も呑んでいないようだった。
「あたしにはこれしかなかった。それだけのお話よ」
そう言って、未登録名前は『正しい遊女の顔』をして笑っていた。
この日もまた、特に延長などせず時間きっかりに遊郭を出た。それでも帰りは遅くなるので、翌日は寝坊し主に「また呑み過ぎかい」なんて笑われた。
これはまずいと、自分でも分かっていた。
なのにまるで坂道を転がっている。初めて張見世で未登録名前を見たときの感覚が、自分の中で確かに名前が付いたのを自覚してしまった。
恋は病と誰が言ったか。実際はそんなに甘いものではない。まるで体の内側を、得体の知れない何かが締め付けてくるようだ。考えまいとすればするほどそれは色濃く脳裏に描かれ、忘れたくとも忘れられない。知らなければよかった。あんな気まぐれを起こさなければ、こんな思いをすることはなかった。
本丸所属の刀剣男士が、遊郭の女に惚れたとて、その先に幸せな結末などあるはずがない。
こんなものは、いわば終わりの始まりだ。どこかでこの物語は、終わらせなければいけない。俺が始めてしまったこの物語を。
だが。俺は未登録名前の部屋と盃を見て、気が付いたんだ。
信乃の部屋は、煙草や酒の匂いが薄い。彼女自身も酒の進みが遅かった。そしてなにより、全てを投げ出したような言葉を繰りながらもあの横顔は、何一つ諦めてはいなかった。
俺はあの横顔に、どうしようもなく惹かれてしまっているのだ。
――気づいたところでもう遅い。
この胸の内に巣くった感情は、とっくに焼き付いて剥がれない。
鮮烈で、残酷な、『愛おしい』という感情が。