「……指名中?」
いつもよりは、やや早い時間。陽が沈み切る前に遊郭を訪れ未登録名前の名を告げると、受付の下男はそう答えた。
「へえ。延長がなけりゃ、あと三十分てとこですが。いかがします」
「……そうだな。近くの店で時間潰してまた来る」
「承知しやした」
未登録名前にはひと言伝えときやす、と男が頭を下げるのを見て、俺はくるりと踵を返した。
馴染みの蕎麦屋に顔を出し、まばらな客の合間を縫って奥の座敷へと上がった。蕎麦屋ではあるが酒も多く取り揃え、かつ一品料理の出来も良い。ひとまず冷酒と漬物、それから野菜天などを追加すると、運ばれてきた酒を呑んでひと息ついた。
主と交わした約束は、実に簡素なものだった。『これからは門限をきちんと守ること』。ただ、それだけ。しかし言外には「遊郭の女にこれ以上入れ込むな」という意思表示が認められた。
分かっている。あの長義のように政府所属であるならいざ知らず、本丸所属の男士が遊郭の女と連れ添うなどとは不可能であると。
頭では、分かっている。
だのに『心』というものが、それらを強く否定するのだ。
冷酒を煽り、嚥下する。なぜ俺がこれほどまでに――そんなこと、最早考えるのも意味がない。この胸のうちを巣食う想いをどうするのか、俺に残された選択肢はそれだけだ。
「相席、いいかね?」
不意に声をかけられ、顔を上げる。そこにいたのは金髪、の――
「……一文字、則宗?」
そうだ。俺が二度目に未登録名前に会ったあの日。未登録名前が相手をしていたのは一文字則宗だった。しかも今と同じく、軽装姿、の。
則宗は俺の返事を待たずして、空いていた目の前の席に腰を落ち着ける。帽子と肩掛けを外して置くと、片肘付いて俺を見据えた。
「お前さんかい? 『物好きの日本号』というのは」
――その言葉に、どうして平静でいられようか。
「……だったら、なんだって言うんだ」
「まあそう睨むな。そうさな、単なるじじいの好奇心だ。うっはっは」
「……どうやって、ここにいる日本号がその『物好き』だと探り当てた?」
「簡単なことさ。お前さんのことは前から未登録名前に聞いていてなぁ、さっき指名が被ったとのことだから、行きそうな店を聞いたまで」
「そうまでして俺にちょっかいかける意味が分からねえな。まさか、未登録名前を独り占めしたいからもう来るなとでも言うつもりか?」
軽口の応酬に、緩く苛立ちを覚えた。平素の俺ならどうということはないやり取りだが、未登録名前が絡むとこうも取り乱す。そんな自身にも嫌気が差し、つい語気も強くなった。
則宗はそんな俺の様子を見て、すうと目を細める。
「そうだ、と言ったら?」
「……っ!!」
「お待たせしましたぁ。野菜天の盛り合わせですぅ」
思わず、掴みかかりそうになる姿勢が、店員の割り込みでなんとか引っ込んだ。
「おお! ここの揚げ物は絶品だよなぁ! お前さん分かってるじゃないか。……ああ、そこの。僕にもこれの……そうだな、冷やでくれ」
「かしこまりましたぁ」
「てめ、なに勝手に……!」
「まぁまぁ良いじゃないか。もちろん勘定は払うぞ? 割り勘で」
「割り……そういう問題じゃねえ!」
「お待たせしましたぁ、冷やですぅ」
「うむ、ありがとう」
「……ちっ」
すっかり調子を狂わされ、文句を言う気も失せた。空白を埋めるように野菜天に箸をつけると、じゅわりと舌に馴染んだ味が染み渡り、少し頭が落ち着いてくる。
「……で? なんでいきなりあんなこと言い出した。ただの冗談じゃないだろう」
今一度、一文字則宗を見据えて話を切り出した。ちゃっかり野菜天を口に運んでいた則宗も一度箸を置き、またにやりと笑ってみせる。
「ああ。僕は未登録名前を身請けしようと考えているんだ」
時が。
止まったような気がした。
「僕はな。本丸に所属していたこともあったが、なんやかんやで政府に出戻ってね。それで永年政府所属が決まったわけだが……正直、堪えたさ。この本丸ではどんな物語が見られるのだろうと、そんなふうに夢見ていたものだからなあ……」
一瞬、則宗の瞳が曇るのを見逃さなかった。見逃せなかった。こいつにはこいつの事情があり、それが深いものであることを悟ってしまった。
「ま、要するにヤケってとこだな。遊びのつもりで、しかし同情よりもただただ聞いていて欲しかった。そんなときに出会ったのが彼女だ」
「……じゃあ、あんたは」
「おっと」
則宗は、いつの間にやら手にしていた扇子で口元を隠した。
「そいつは違う。彼女は確かに僕を救ってくれた。だが、僕は彼女のことを『そういう意味で』好いている訳じゃない。……お前さんと違ってな」
血が、まるで煮えるような感覚がする。
「……好きでもない女を娶ろう、っていうのか。あんたは」
「好きは好きだろう。多少形は違えど、愛があるのに変わりはない」
「あいつには言ったのか」
「ああ勿論。僕にそういった感情がないのも含めて、全て話した」
「……返事は」
「少し待ってくれ、だそうだ。ま、それもそうだ。さっき話したばかりだからな。うはは」
「……想い人でもいるんじゃないのか」
「そうかもなぁ」
俺は、ついに言葉を失った。
則宗は扇子をくるくると弄び、
「だとして、他にどうしてやれる。まさか、身請けした彼女をその想い人とやらにあてがってやればいいとでも? どこの本丸の馬の骨ともしれぬ男士に?」
扇子が空を切り、真一文字を描くようにして鼻先に突きつけられた。
「いいか。僕は僕なりに彼女を愛している。だからこそあの場から連れ出してやりたいとも。……その彼女を、中途半端な想いで付き合ってるお前さんに渡してやる道理はない」
その言葉に返せるものを、俺は、なにも、持っていなかった。
政府に所属している『一文字則宗』。であれば、相応の地位を持ち、相応の財産もあるだろう。本丸所属のいち刀剣男士とは、比ぶべくもない程のものを。
「……さて、じじいの注意はこれでお仕舞いだ。僕はお暇するとしよう」
則宗は先程までの剣呑な雰囲気をすっかり消し、よっこらせと大仰に立ち上がって座敷を下りた。
「ではな。彼女の心づもりが決まるまでの間は、僕はこれ以上なにもしない」
それはつまり、残された時間を悔いのないように、ということだろう。
俺は則宗を見送らず、盃に残っていた酒を一気に煽り、そしてようやく、則宗が店の代金をすっかり払っていったことを知ったのだ。
「……日本号?」
「……よう」
下男に告げていた時間より少し遅れて部屋へ行くと、未登録名前は慌てて座布団やら猪口やらを用意した。
「いつも時間通りに来るから、びっくりしたわ」
「ああ、悪いな……」
「ううん。嬉しかった」
そう言って笑う未登録名前を見て、胸の奥がきつく締め付けられる。
「あら、どうしたの? これ」
「あ?」
隣り合って座ると、未登録名前の指がそっと俺の左頬に触れた。
「切り傷だわ。戦場のもの?」
「いや、今日は遠征だけで――」
はたと気づく。傷はおそらく則宗によるものだ。奴に敵意があったかどうかまでは分からないが、もののはずみといったところだろう。
それをどう誤魔化すかで悩んだ数秒が、未登録名前には伝わってしまったらしい。
「……ごめんね」
未登録名前の細い指先が、俺の頬をゆったりと撫でる。そういえば、未登録名前が俺に触れるのはこれが初めてだと、思いつく頃には全身が熱を帯びていた。
心とは。思いとは。こうもままならぬものなのか。
かつて見届けた審神者も、その妻も、こんな思いを抱えながらあの選択を遂げたというのか。それを俺は、なんと恐ろしい感情で眺めていたのだろう。
胸が、酷く痛む。
未登録名前の酌する酒はこんなに苦いものだっただろうか。声は、こんなに苦しいものだったろうか。
俺は。
彼女に何をしてやれるというのだろうか。
「……おかえり、日本号」
結局いつもと同じ時間。本丸の廊下を歩いていると、同じように湯浴みを済ませた主と行きあった。
「……心配しなくても、もうあんなヘマはしねぇよ」
「はは、まだ僕が気にしていると思っているのかい。安心してくれ、お前のことはちゃんと信用してるよ。……でなければ、妻のことを任せてない」
妻の。
脳裏に過去の光景が蘇り、知らず奥歯を噛み締めた。
「ところで、それどうしたんだい?」
「ああ、これは――」
傷のことだろうと思い、自身の頬に手をやり――言葉を失った。
「赤く線になってるが、どこかの審神者に直してもらったのかい? だとしたら礼を言わないとなぁ」
傷が、完全に塞がっていた。
刀剣男士の傷は手入れをしなければ人間の治癒力とそう変わらない。小さな傷とはいえ、審神者の手入れなしにたった数時間で完治するなどあり得ないはずだ。
「……日本号?」
首を傾げる主の声にはっとする。俺は務めて平静装い、なんでもないと首を振った。
「礼は、俺からしておく。そうさせてくれ」
「……そうか。分かった」
じゃあおやすみ、と主は自室へと去っていく。
傷が塞がった理由。考えられるとしたら、ただ一つ。
「ごめんね」と、俺の頬を撫でた未登録名前の姿を思い出す。自らを『審神者崩れ』と自嘲しながら、男士と関わるこの場所が良いと言っていた彼女のことを。
あいつにはまだ審神者としての力が残っている。なのに、状況が、環境が、それを許してはくれない。それならば、いっそ。
(あいつの元にいたほうが、未登録名前は、苦しまずに済むのか)
いよいよ決断をするべきだ。
俺が始めたこの物語を、どう終わらせるのか。