ため息をつく。作業部屋にこもった熱気が汗を走らせ、仮面の内側に伝い落ちた。
どうにも手が進まない。煮詰まったみたいだ。
僕は蝋細工からナイフを離して机に置くと、裏口からこっそり外に出た。こういうときは、気分を少し変えてみよう。
すっかり夜も更け、まん丸のお月さまが雲のない空に浮かんでいた。それでもアンブローズを囲む森を照らすには足りず、伸びた影が黒々と地面を埋めていた。そうでもしてくれなきゃ、僕はこんなふうに出歩けないのだけれど。
あんまり外にいると、ボーが叱りつけるんだ。その醜い姿を晒すなよって。僕もそう思うし、実際ひとに見られると面倒しかおこらないから、僕が外を歩けるのはこんなふうな夜しかなかった。まぁ、ひとに見られるなんて、色々な理由があって滅多にないのだけれど。
息を吸い込むと、夜の透き通った空気が肺を満たしてくれた。吐く息に僕の中のもやもやが載って、夜霧のなかに溶けていく気がした。
もう少し踏み出してみよう、そう思ったとき、横からぱきっと枝が折れる音がした。動物かなとそちらを向き、僕はかたまってしまった。
「あなたは……?」
若い女の子だった。夜霧みたいに透き通る声で、不思議そうに首を傾げている。ひとすじ差し込んだ月光が彼女を浮かび上がらせ、まるでそこだけ何かの絵画のようだった。
どうしてここにひとが、どうやって、仲間はいるのか、様々な言葉が頭に浮かぶけれども、あいにくと僕の喉は使いものにならない。空気が抜けるみたいな呻き声だけが、かすかにマスクから漏れた。
とにかく、ここから離れなきゃ。そしてボーに報告して、殺してもらわなきゃ。なのに足は一向に動こうとはせず、つま先が彼女に向いたままぴたりと地面に張り付いていた。
そのまま数秒経ったところ、彼女はふっと笑った。
「驚かせて、ごめんなさいね。私は未登録名前。この近くで友達とキャンプをしてたのだけど、はぐれてしまって……よければ道を教えてもらえないかしら」
柔らかく微笑む彼女に、僕は釘付けになった。彼女、未登録名前は僕の顔を見ても驚くことなくまっすぐ見ている。なぜだろう、未登録名前を見つめかえすことができなくて、僕は自然とうつむきがちになった。なにか、なにか反応しなきゃ。変って思われてしまう。焦るほど頭のなかはごちゃごちゃになって、ついに呻き声すらだせなくなった。
すると、未登録名前の足が動いて、僕の手を両手で握ったのだ。
「困らせてしまったのね。気づかなくって本当にごめんなさい……声がでないのなら、せめて導いてくれるだけでも」
僕なんかの手を、握っちゃ、だめだ。振り払おうにも未登録名前のきれいな細い指が手の甲をなぞると胸がつまったように苦しくなって、どうしたって動けない。
いっそ、このまま未登録名前を連れて行ってしまおうか。
でもどこに?アンブローズは、きっとボーが取り上げてしまう。なら森の外は?街まで行ってみる?未登録名前と一緒なら、それもいいかもしれない。僕が蝋人形を作って、それを未登録名前が売って、そうすれば普通に暮らすことだってできるよね。普通、そう、普通のひとみたいに。
月の光が未登録名前を照らす。ほんのすこし顔を上げると、気づいた未登録名前は柔らかそうな頬を持ち上げて小さく笑った。
ゴッ
鈍い音。未登録名前が膝をつき、地面に倒れ伏した。ズルズルと手が離れ、草むらに投げ出された。僕の足元には、赤黒い液体がじわじわ広がっていった。
「……ヴィンセント。何してやがる」
低く苛立ちの含んだ声。暗がりから現れたのはボーだった。片手には金属のバットが握られ、ぽたぽた血が滴り落ちる。
ボーは未登録名前の体を蹴飛ばすと僕の襟首をつかんだ。
「お前はな、どこにも行けねえんだよ。ここでしか生きられない。お前を受け入れてくれるやつなんか、どこにもいやしないんだ」
吐き捨てるように言うと、ボーは僕から乱暴に手を離し、背を向けてアンブローズに消えていく。
僕はもう一度未登録名前に視線を向けるが、先ほどのような高揚感はうそみたいに消えていた。レスターが帰ってきたら処理を頼まなきゃいけないなぁ、とぼんやり思った。
普通の感覚なんかとうになくしてしまった僕は、やっぱりボーの言う通り、ここでしか生きられないみたいだ。