六枚目 滂沱

「いらっしゃい。今日は時間ぴったりなのね」

「ああ」

 いつものように。
 未登録名前のいる部屋に上がり。
 いつものように。
 言葉を交わし、酒を呑む。
 居心地の良いはずだったこの空間は、今の俺にとっては堪らなく苦しいものになっていた。
 だがそれも、もう終わりにしなければいけない。
 俺が決定的なひと言を告げるべき時だ。

「なぁ」

 酌をしていた未登録名前に声をかけると、少しだけ肩を跳ねさせた。

「則宗の話。あんたはどうする気だ?」

 視線は重ならない。銚子を握りしめたまま、未登録名前は唇を引き結んだ。

「良い話、じゃないのか」

 勝手に。

「願ってもない話だろう。借金も年季も関係なくここを出られる」

 言の葉が滑り出す。

「政府所属の一文字則宗なら、刀剣男士と関わる仕事をしているんだ。あんたも関われるかもしれないぜ」

 己が身を傷つけるだけの言の葉が。

「ここに留まる理由は、ないはずだ」

「ばか!!」

 押し黙っていた未登録名前が。吠えるように口火を切る。

「そんなのわかってる、わかってるよ……でも! 日本号の口から、そんなこと聞きたくないよ!!」

 まるで。
 まるで、少女のようだった。
 大人の色香を纏った『正しい遊女』はどこにもいない。

 そこにいたのは、たったひとりの『未登録名前』だった。

「……悪かった」

「……思ってもないくせに」

「思ってる。俺もヤケになっちまった」

「うそだ……」

「確かめるか」

「どうやって」

「……こうするんだよ」

 そう言って俺は盃を置いて、決してこちらを見ようとしない未登録名前の腕を引いて自身の懐に引き寄せた。

「分かるか」

 どくり、どくりと。
 神でありながら人の身を得たその時から、変わらない拍子を刻んでいたあの鼓動が、今、かつて無いほど高鳴っている。
 心の臓が。痛いほどに鳴っている。

「……日本号」

 狼狽える声に、俺は乾いた笑いをひとつ漏らした。

「馬鹿、みてぇだろ」

「そんなこと、」

「あんたが言ったんだろ」

「そうじゃなくって! だって、日本号は、わたし・・・――」

「未登録名前」

 それ以上はもういいと、優しく制するように名を呼んだ。未登録名前は言葉を詰まらせて、それから俺の着物に縋り付く。

「……どうしてかな」

 表情は見えない。しかし震える声が、また一つ俺の心臓を跳ね上げる。

「どうしてこんなふうにしか、なれなかったのかなぁ……」

 熱にうかされたうわ言のように吐き出して、それきり未登録名前は押し黙った。その日は最後まで視線が重なることはなく、しかし体を離すことはせず、俺たちは時間いっぱいそうしていた。
 結局この日、俺はなにも言えなかった。
 いや、言わなかったんだ。
 
 俺の心はこの時に決まったのだから。

「どうしたんだい? お前のほうから話があるだなんて、珍しいこともあるもんだ」

 執務室を訪ねると、主はいつものように人好きのする笑顔を浮かべていた。
 向かい合わせの位置に座布団を寄越すが、俺はそこに座らずに跪座の姿勢を取る。
 それを見た主は、ぴくりと眉を跳ねさせた。

「……どういうつもりだい?」

 声音こそ、いつもの通り柔らかなものだ。しかし向ける視線は突き刺すような鋭さを持っている。
 主には、俺が今から何を言おうとしているのかが分かっているのだ。

「頼みがある」

 背筋を伸ばし、臆することなく言葉を発する。

「遊女を一人。身請けする」

「……する、か。希望ではなく、確定事項かい」

「ああ」

「それがどういう意味を持っているのか、お前は分かっているのか」

「分かってる。遊女を身請けした男士が、女ごと本丸に住み続けるなんてことは許されないだろ」

「……僕は、大事な槍をひとつ失うことになるんだ。それを主である僕が納得するとでも?」

「簡単に許可されるとは思ってない。だが、俺も譲る気はない。なにがあっても、どんな手を使っても」

「僕を説き伏せる、と?」

「ああ」

 長い、長い沈黙が訪れる。
 主は目を伏せ、眉間にしわを寄せていた。昔からの癖だった。どうにもならないことや、迷った時に出る癖だ。それを妻がからかう姿も何度も見ていた。「しわがあると、怖い顔になってしまうわ」そんなふうに言って夫の額を撫でていたのだ。
 思い返せば、そんな何気ない日常も、この本丸には愛で溢れていた。

「あんたの妻が」

 そう思うと、続く言葉はすらすらと溢れ出した。

「最期までこの本丸に居た理由が、今なら分かるんだ」

 あの光景を思い出す。
 妻の布団にしがみついて泣き腫らす夫の背中を、ゆったりと撫でる妻。口許には笑みさえ浮かべて、ただただ夫の嗚咽を聞いている。
 あの時は、どうして何も言ってやらないのかと思っていた。彼女なら、長年連れ添った夫を宥めすかす言葉などいくらでも持っているだろうにと。
 今なら分かる。
 言葉を酌み交わすだけが愛情ではないのだ、と。

「……お前は」

 長い沈黙の末、主はため息とともに吐き出した。

「手の掛からない槍だと、思っていたんだけどねえ」

 主は、笑っていた。
 その笑顔を見たとき、俺はふと、この人に子どもが居ればこんな顔を向けるのだろうなと、そんな光景が浮かんで消えた。

「その子の年季はあとどのくらいなんだい」

「確か……いや、あんたがそれを聞いてどうする。……まさか、」

「お前の給金だけじゃあ賄えんだろう」

「これは俺の問題だ! そこまで手を借りるわけには――!」

「妻がね、言っていたんだよ」

「……何を」

『もしこの先、日本号が我が儘を言う日が来たら、絶対に叶えてあげて』

 彼女には。
 もしかしたら、分かっていたのかもしれない。
 俺が何にも執着せず、己を入れず、……審神者から与えられたはずの『心』を、動かすことが無いままこの本丸に在ったことを。

「……感謝する」

「僕ではないよ」

 主の声は、どこか楽しげにも聞こえた。