薄い薄い暗がりを歩いている。体は重く、足を引きずり、それでもなんとか前へ進んでいる。何故なのかは、分からない。だが、俺は何としてでも進まなければならないという使命感に襲われていた。
ただ、前へ。
その思いだけが歩み続ける理由だった。
「――……っ、」
刹那、体が傾いだ。何かにつまづいた、と思うころには地面に体が投げ出されていた。
否。それは地面ではなかった。
一面に広がっていたのは、かつて人間だったもの。血の海に横たわる数多の肉塊。俺はそれらを踏み締めて、己の道と成していたのだ。
そして思い出す。
この屍を積み上げたのは俺だった。
「――っ!!」
跳ね起きる。そこは見慣れた本丸の自室。主が、近侍のために設えてくださった部屋だった。
徐々に頭が現実を取り戻していくと、寝巻きの胸元を掻きむしった。
主から仰せつかったことはなんでもやった。ただの刀であった頃からそれは変わらない。何もかも、主命とあらばなんでもこなす。それが俺の矜持であり、『へし切長谷部』の本分だった。
それなのに。
両手で、顔を覆った。
脳裏に思い浮かぶのは、人の身を経てからの日々。今代の主に顕現してもらい、日々増える仲間たちとともに過ごす日々のこと。時には騒がしく、時には励まし合い、本丸で暮らす日々は甘く柔らかなものだった。
俺の両手はとっくに血塗れなのに。
血と煙にまかれた戦国乱世の生まれ。前の主に由来する『へし切長谷部』という名前。その物語で以て今の俺は在るというのに。
俺は、こんな、やさしい場所にいていい刀ではないのだ。
「……長谷部?」
うっかり返事をしかけ、ぐっと堪えた。
主が障子の向こうにいる。
「珍しく寝坊したのかな、って。いつも起こしに来てくれるから気になっちゃって……」
「い、いえ。申し訳ありません、すぐに準備致しますので少々お待ちを」
「待って」
身支度を整えようと起き上がろうとしたのだが、主の声に動きを止めた。
今までに聞いたことのないくらい、切羽詰まった声だったのだ。
「勘違いだったらごめんだけどね、何だか、長谷部の元気ない気が、して」
「いえ! 決してそのような」
「ううん」
言葉を、制される。
どうしていいのか分からないまま、俺は沈黙するしかできなかった。
やがて主は、先ほどより柔らかくなった声音でその先を続けた。
「やっぱり無理してる。調子が悪いなら、今日はお休みしよう」
「……今の近侍は、俺です。仕事に穴を開けるような真似は出来ません」
「だけど」
「お願いします。どうか、……そばに、居させてください」
言葉にしてから、言ってしまった、と思った。
きっとこれは俺の本心だ。どんなに血に塗れていようと、前の主の言いなりになっていようと、今代の主に対する思いはただそれだけだったのだ。
なんて、なんて、――身勝手な言葉だったのだろう!
「そっか」
撤回するべく飲み込んだ息は、行き場をなくして霧散した。
「うん。それならゆっくりおいで。朝餉も燭台切さんに作り置きしてもらうから、落ち着いたら執務室に来て」
「し、しかし。俺は……俺は主に……」
すると、主は小さく笑った。
「滅多にない長谷部の頼みだもん。聞いてあげなきゃ主じゃないよ。男士が審神者のお願いを聞いてもらうのと同じくらい、審神者も男士の望むことは何でも叶えてあげたいんだよ」
じゃあまた後でね、と主はその場を立ち去っていった。
ぼふ、ともう一度枕に頭を沈める。
血で汚れたこの両手。
前の主に由来する名前。
その逸話をもとに、俺は進み続けなければならないと思っていた。
例えそれが修羅の道であったとしても、その覚悟はいつだってあった。
だが。
(……俺はあの人の側にいたいのか)
自分で発したあの言葉が、頭の中で何度も繰り返されていく。その度に、胸の内に柔く暖かな『気持ち』が広がっていくのを確かに感じた。
過去は変えられない。
未来は誰にも分からない。
それならいっそ、未来に向かって足掻くことをしてみようか。
この『気持ち』に気づかせてくれた、あの人のために。