あの日の夜も、こんな雨が降っていた。
もうすぐ店じまいという時分に、ひとりの男が軒下にやって来たのに気がついた。万屋街の和菓子屋なんぞをやっていると急な物入りだとかで駆け込んでくる客は少なくないが、こんな雨の日の客足は朝から遠いのである。その証拠に男はいつまでも中にはいってくる気配がない。きっと雨宿りか何かだろう、と踏んで店員はからりと引き戸を開けた。
「雨宿りですか」
「……あ、ああ、すまない。軒下を借りている」
男は店員の姿をみとめると一瞬ぎょっとしたようだった。無断で軒下を借りたことへの罪悪感か、または人の少ない万屋街において店員が人間の女であったことへの驚きだろうか。
「構いませんよ。もうすぐ店じまいですけど、中に入られますか」
「いや、……ここでいい」
そう言って男は真っ黒な空から滴り落ちる雨に目をやった。
店員は、なにとなく、男の隣に立ってみた。どうせ今から来る客などいないし、店じまいも粗方済んでいるので、それよりはほんの少しの好奇心に身を預けてみたくなったのだ。
店員は沈黙の中、記憶をたどった。この男の風貌に見覚えがあったからだ。男は確か、刀剣男士という付喪であった。人の形(なり)をしているがその本質は刀であり、『本丸』ごとに仕える主がいるのだと聞き及んでいる。ではこの男もどこぞの本丸の刀剣男士なのだろう。その名前は確か――なんといっただろうか。
「長曽祢虎徹という」
店員は心を見透かされたかに思いぎょっとして男のほうを向いた。男の、長曽祢虎徹の視線は相変わらず空を向いている。
「主がな、ここの菓子が好きだと言っていた」
「そうなのですか」
聞こえは単なる世間話だった。だが、店員はどうにも居心地の悪さを感じていた。それは長曽祢虎徹の言葉が過去形だったからだろうか。
「おれもよく相伴に預かっていたが、来るのは初めてでな。随分探してしまった」
「まあ……ウチは大通りからだいぶ離れてますからね」
「やっと見つけたと思ったのだが……この雨ではな。主は晴れ女だと言っていたのに」
何故だろう。妙に噛み合わない。
店員は少し黙って、聞くに徹することにした。
「実際、主は晴れ女だった。どこかへ出かけるときはいつも晴れていたし、前日の予報が雨でも、当日になるとすっかり晴れてしまうんだ。主は太陽に愛されていたのかと思うくらいに、彼女との思い出はいつも太陽の下だった」
そこまで喋ると、長曽祢虎徹は一呼吸置いて目を細めた。
「だから当然、式のときも晴れると思っていた。予報でも晴れと言っていたのが、夜から風向きが変わって丸一日雨だった」
店員は、長曽祢虎徹がいう『式』が、祝い事でないと悟った。
「彼女を手に入れたから太陽が満足してしまったのだ、などと言うものもいたな。それを諌めたのが初期刀殿だったか。はは、つい昨日のことにも、随分昔のことのように思える。不思議な心地だ」
そうか、と店員はこの居心地の悪さを理解する。
この長曽祢虎徹は、雨を見ているようで見ていない。空を見上げているようで、見ているのはもっともっと遠いところなのだと。
「あなたは、太陽がにくいですか」
そう言うと、店員と初めて目があった。金色の瞳が片方だけ、重い前髪から遠慮がちに覗いている。
「……ああ、そうかもしれんなぁ」
ふ、と長曽祢虎徹はかすかに笑った。そして、
「そうか、そうだったか……」
ひとり、得心したように何度か頷いて、それからもう一度店員のほうを見た。
「あんたのお陰で、長らく疑問だったことが漸く分かった。感謝する」
長曽祢虎徹が会釈すると、隠れていたもう片方の金色が揃って見えて、まるで、真昼に光り輝く――
「あの」
「雨脚も大分弱まった。おれはここで失礼する」
軒先、助かったと短く告げて、長曽祢虎徹は白と黒のだんだら模様の羽織を翻した。
その瞬間だった。
「……あれ?」
瞬きと同時だった。長曽祢虎徹の姿消えている。まるで最初からそこに居なかったかのように、影も形もない。
はっとして己の足元を見た。そこには、あるはずの長曽祢虎徹の足跡がないのである。そしてもう一つ思い出した。男の髪も、上着も、何一つ濡れていなかったことに。
『式』は、長曽祢虎徹も参列したのだろうか。していないのだとしたら。
その疑問に答えるものは誰も居ない。
ただ、店員は雨の日の夜になると思い出すのだ。
あの日の夜も、こんな雨が降っていた――