名前と約束
「そういや、キミの名前を聞いていなかったよ」
パンを買って女に渡すと、調理を始めたところでふと顔を上げた。こちらを見ながらでも手が止まらないのはさすがと言うべきか。
に、してもその通りだ。今まで名乗る機会がなかった……いや、初めて会った時のことをこいつが覚えているのだとしたら、メディアで犯罪者と取りざたされているこの俺を警戒してよさそうものだが、一向にそんなそぶりを見せないところを省みると、おそらく気づいていないのだろう。なら、ここで馬鹿正直に名を名乗るのは得策ではない。
「ゼロだ」
「ほお、かっこよい名前だぁ」
やはり気づいていないらしい。女はふにゃりと破顔して、自分の名を告げた。
「私は未登録名前っていうよ。改めてよろしくね」
「次があるか分からんぞ」
「いやぁそこは気まぐれ起こしていただかないと」
「……売り上げか」
「あたぼうよ」
「守銭奴」
「ちーがーいーまーすー」
未登録名前は口を尖らせながらも作り終えたサンドウィッチとグリーンサラダ、コーンスープなどをカウンターに並べた。見た目は彩りよく美味そうに見える。こんな性格だが、カフェバーを経営しているだけはあるらしい。
サンドウィッチを口にして咀嚼していると、未登録名前がニヤニヤとこちらを見ていた。
「美味しい?」
「……まあな」
なんとなく素直に賛辞できず曖昧な言い回しをしたが、未登録名前はそれで十分であるかのようにまた柔らかく笑う。
「そいつは何よりだ。……私さ」
未登録名前はカウンターに寄りかかり、
「約束があるんだぁ。だからこのお店続けるの。そのためには、いっぱい稼がないとね」
「約束?」
「そう。だぁーいじな、約束」
そこで言葉を切った。それ以上話す気はないらしく、鼻歌を交えながら調理器具を洗い始める。
大事な約束。その言葉を口にした時、未登録名前の表情は優しく、愛おしいものを見るかのように形を変えた。さほど長い付き合いではないが、それが滅多に見せるものでないことぐらい容易に想像できる。それほどまでに、約束が、それを交わした人物が、未登録名前にとって大事なものであるかがうかがい知れる。
その瞬間自分のなかのどこかに違和感が生まれたが、気づかないフリをして最後の一口を頬張った。