お姉さんが、締め切りが近くてご飯を食べる暇も無い、と言っていたので、ボクは夕飯を多めに作って、差し入れに行くことにした。
ちょうど鯖が安く仕入れられたので、味噌煮にして鍋ごと持っていく。
確かお姉さんは、魚料理では煮魚が好きって言っていたから、きっと喜んでくれるだろう。
アパートを下から見上げて、お姉さんの部屋に明かりがついているのを確認してから、階段を登った。すると、段々と声が聞こえてきた。
お姉さんの声。と、男の人の声。
階段を登りきってドアの前に立っても、チャイムを鳴らすのに数秒、迷った。
だけど会いたい気持ちのほうが勝ったようで、ボクは鍋を抱えなおしてチャイムを押す。
はーい、というお姉さんの声がして、ドアが開いた。
「あ、まぐろくん!こんばんは~」
「こんばんは★」
ちらっと中を覗くと、スーツを着た若い男性が座っている。
目が合うと、男性はにこやかに会釈をした。
「やあ、佐々木君。こんばんは」
「……こんばんは★」
彼は、お姉さんの担当編集の人だ。
お姉さんを訪ねるうちに何度か会ってはいるけど、ボクは、どうしてもこの人が好きになれないでいた。
それはおそらく、とても子供っぽくて情けない感情からくるもの。
自分で分かっている。これは嫉妬だと。
「お姉さん、よかったらこれ、どうぞ★」
今はその気持ちを片隅においやって、お姉さんに鍋を差し出した。
「わ、もしかして差し入れ?いつもありがとう、まぐろくん!助かる!」
お姉さんは嬉しそうに鍋を受け取ってくれた。その笑顔が、今のボクにとっては救いだった。
「ねえ、よかったらちょっとあがってかない?お茶くらい出すよ」
「遠慮しときます。お仕事の話、してるみたいですし★」
半分本当で、半分は嘘。
本当の部分は、できるだけあの人といたくないから。
「じゃあ、また今度お礼させてね」
「ほどほどに、期待しときます★」
「いっぱいしといてよ~」
「はいはい★それじゃ、ボクはこれで★」
「うん、ほんとにありがとね~」
ばたん、とドアを閉めると、中からまた声がする。
「未登録名前君、さっきの話の続きだけど、」とかいう声。
ボクは階段を下りながら、片隅においやっていたはずの気持ちが噴出してきたのを感じた。
未登録名前君、だってさ。ボクは、下の名前で呼んだことないのにな。
昔から、お姉さんはお姉さんだったから、今でもなんとなくそう呼んでいるけど、本当はボクだって名前で呼びたい。
未登録名前さん。
心の中ならいくらでも呼べる。
いつか声に出して言えるだろうか。
その声は、未登録名前さんに届くんだろうか。
(お姉さん、かあ)
もしボクが、もっと大人で、もっと違う形で出会ってたら……未登録名前さんも、ボクのことちゃんと見てくれたかな。
一人の男として。
ないものをねだっても仕方ないけど、でも願わずにはいられない。
そういう距離なんだ。ボクと、お姉さん、は。