向日葵の三十日

向日葵の三十日

 梅雨が明け、蝉の鳴き声が賑やかになる季節となった。懸念されていた暑さは湿気がなくなると意外にそうでもなく、扇風機を回していれば客間でも十分過ごせることが分かった。よく考えれば現代のコンクリートジャングルとは違いこれだけの木々と水堀に囲まれていれば、気温も上がりようがないのだろう。
 ちりん、と風鈴が鳴った。鴨居に吊るされたそれは、蹴鞠会の子たち――あの時のメンバーがいつの間にかそう呼ばれるようになった――が遠征帰りのお土産としてくれたものだった。なんでも私が執務室にしている客間がいつまでも殺風景なので、なにか飾れるものはないかと探してくれたのだという。その心遣いが嬉しくて、風鈴のガラスに描かれた金魚を見るたび自然と頬が緩んだ。

「主さーん! たっだいまー!」

 元気な声とともに小走りの足音が近づいてくる。その後から控えめな足音と「浦島、廊下は走らない」と諌める声が続くものだからまた少し笑ってしまった。

「おかえりなさい、ふたりとも」

「ただいま、主。注文は全て済んだよ。……これと、これは来週中には届くそうだ。これは在庫切れで再来週以降になるらしい」

「うん、ありがとう」

 発注票の写しを受け取り、一つひとつ確認していく。浦島くんと蜂須賀さんには万屋街に買付けに行ってもらっていた。みんなが使う日用品や消耗品などは数が数なので、お店に行って発注して届けてもらう形を取っている。私は仕事が山積みのせいでなかなか外に出られないため、都度手が空いている刀に頼んでいた。通販するという手もあるのだが、「これ以上あんたの仕事を増やすより手隙のものに頼んだほうが早い」というのは、平素私のワーカーホリック気味の働きを見ている近侍の言だ。

「ふたりともお疲れ様」

「ぜーんぜん! 何かあったらいつでも言ってよ」

「ああ。大した手間じゃないからね」

 ふわりと蜂須賀さんに微笑まれると、なんだか少し照れてしまう。蜂須賀さんは女の私よりもはるかに美人なので、そんなひとが微笑む姿といったらまるで絵画かなにかのようだ。
 それに何より、先代の初期刀であった蜂須賀さんが私に良くしてくれることが、こんなにも嬉しい。

「――主」

 今度は重い足取りと、よく響く低い声。

「長曽祢さん」

「遠征部隊が帰還を……取り込み中だったか?」

「……いや」

 それまで柔和だった蜂須賀さんの声音が冷え、長曽祢さんとすれ違いに部屋を出る。

「俺の報告は済んだ。主、失礼するよ」

 そう言い残し、蜂須賀さんは立ち去ってしまった。
 ――蜂須賀虎徹と長曽祢虎徹。この二振りが内に抱える問題は計り知れない。方や虎徹の真作を誇りとし、贋作を忌み嫌う蜂須賀虎徹。方や、贋作でありつつもあの新選組局長、近藤勇の佩刀として幕末を駆け抜けた長曽祢虎徹。なんの因果かこの二振りは、真作と贋作でありながら兄弟という位置付けで励起されたのだ。
 ……更に言うと、この本丸の長曽祢さんは前任者の近侍で恋仲。よその本丸で聞くような「贋作」との罵倒だったり殴り合いのケンカに発展しないだけ良しと言えるくらいだ。

「……ごめんね、主さん」

 浦島くんがしゅんとうなだれている。肩の亀吉までも丸まって尾を下げていた。

「優しいね、君たちは」

 虎徹兄弟の関係は根深いものだ。それを無理にどうこうしようだなんて思っていない。だから私に気を遣うことなんてないのだ。
 話題を切り替えるべく「そういえば」と切り出した。

「買付け、軽装で行ったんだね」

「あ、これ?」

 浦島くんと蜂須賀さんの着物は普段の内番着と違い、政府が刀剣男士用に売り出している長着、軽装だった。それぞれの男士の好みや紋、名前などから連想される意匠を凝らしたもので、政府と本丸間でやり取りされる通貨を払うと入手できるものだ。
 浦島くんは私によく見えるように腕を広げてくれた。深い緑色と亀甲模様が浦島くんらしい着物だ。

「よく似合ってるよ」

「えっへへー、ありがとう! 先代さんが、欲しい男士には贈ってくれたんだ。長曽祢兄ちゃんも持ってるよ」

「へえ、そうだったんだ」

「……おれはもう長いこと着ていないがなあ」

「そうなの? もったいない」

「機会がないものでな」

 そう言って、長曽祢さんは困ったように自身の顎をさすっていた。それもそうか、引き継ぎだなんだと忙しい日々を近侍として過ごしていれば、私と同じく外出する機会がないのは当たり前だった。

「主さんは持ってないの? 着物」

「へっ、私?」

 浦島くんはぴょんと私の前に座り込み、目を輝かせた。

「いつも洋装だから、たまには和服も見てみたいなーって」

「うーん、持ってないんだ。現代だと和服持ってる人のほうが珍しいくらいだし」

「えーっそうなの? でも俺、主さんの和服見てみたい!」

「そう言われても」

「長曽祢兄ちゃんだって見たいよね? 主さんの浴衣姿とかさ!」

 いきなりそんなこと言われたって困るんじゃ……と思いながら長曽祢さんを見上げると。
 彼は、ゆるりと口角を持ち上げていた。

「そうだな……見てみたい」

 どくり。

「だよねー!」

 顔に熱が集まる。なんだ、これ。へんな感覚。胸がざわざわして落ち着かない。頭が真っ白で、なにも返事が思い浮かばない。けど、なにか言わなくちゃ、でもなにを、

「その話!」

「聞かせてもらったよっ!」

 ばばん、と効果音がつきそうな勢いで清光くんと乱ちゃんが登場した。そういえばこのふたりは今日の遠征部隊で、さっき長曽祢さんは遠征部隊の帰還を知らせに来てくれたんだった。
 ぽかんとする一同をよそに、ふたりはずずいと私に詰め寄った。

「主ってば普段全然着飾ったりしないじゃん。この際だから俺たちに任せてみない?」

「そうそう! 思いっきり可愛くなっちゃお!」

「え、そ、いや、」

「いいじゃんそれ!」

「浦島くんまで!」

「じゃあさじゃあさ、せっかくだからみんなで花火大会とかしようよ! 今の時代っていろんな手持ち花火があるんでしょ? それだったら浴衣着る機会になるよね!」

「おおー、浦島ナイスアイデア。採用」

「やったー!」

「いや、でもホラ。私浴衣買いに行く暇とかないし」

「今は通販で何でも買えるでしょ?」

「ヘアメイクはボクに任せて! ばっちり決めてあげるから!」

 本丸きってのオシャレ番長らによってあれよあれよという間に色んなことが決まっていく。いや、実のところ、みんなで遊ぶことに反対するどころか、すごく楽しそうだと思っている。けど、なんだろう。私なんかが混ざっていいのだろうかとか、浴衣なんて着るの何年ぶりだとか、そもそも私がお洒落に着飾るのとかもいつぶりだとか、

「主」

「はいいっ」

 長曽祢さんの声にビクついてしまい、また顔が赤くなっていく。そんな私を見て長曽祢さんが笑った。

「今回はどうか、おれたちの頼みを聞いてくれないか」

 そんな、ふうに、優しく言われたら。
 私は頷くしかないのだった。

「……清光くん、乱ちゃん」

「ん?」

「あるじさんどうかした?」

「いや!! こんな大事になるなんて聞いてないよ!!!!」

 夕刻。本丸より少し離れた、物見櫓周辺にて。そこには本丸の全刀剣男士がワイワイと集まっていた。

 花火大会をする、という触れ込みはあっという間に広まっていた。あるものは張り切って会場の設営をすると言ったり、それなら料理もと厨番が腕をふるい、手持ち花火は予算が許す限りこれでもかと買い込まれていた。
 しかも、仕事があるからと私には手伝わせずに、だ。おかげでこんな大掛かりなことになっているとは露ほど思っていなかった。

「てっきり蹴鞠会の子たち中心に少数かと思ってたのに……」

「んー、最初は俺もそのつもりだったんだけどね」

「いつの間にかこうなっちゃったね」

「そんなにみんな花火したかったのかなあ……」

「それもあるけど、やっぱ主でしょ」

「え?」

「あるじさんが浴衣着るって言ったら、みーんな盛り上がってたんだから!」

「ウソぉ!!」

「あ、主さーん!!」

 浦島くんの声に、さっと清光くんの背中に隠れてしまう。

「なにしてんの主」

「ちょっと待って、心というか感情というかいろいろ整理がつかなくて!」

 清光くんの背中からこっそり向こう側を覗くと、新選組の刀たちと浦島くんがこちらにやって来るのが見えた。彼らもまた軽装のようだ。
 その中には、長曽祢さんもいる。墨を燻したような色の、華美でこそないが洗練された意匠の着物。長曽祢さんらしくて、似合って、いる。
 どくり。
 また、心臓がへんな音を立てている。

「あるじさんっ! いい加減出てきなって!」

「わ、ちょ、乱ちゃんっ! まだ心の準備がっ」

 ぐいと腕を引かれてみんなの前に出る。
 私の浴衣は清光くんが見立ててくれたものだった。浅黄色の布地に大柄の朝顔模様が描かれたモダンなデザインで、帯は深い緑色。髪は乱ちゃんが結い上げてお団子にしてくれて、鮮やかな黄色のシュシュで纏められた。ふたりとも着飾るとは言ったが、派手なものを好まない私のことをしっかり考えてくれている。
 私の姿を見たみんなは、わっと声をあげた。

「おお、いいじゃねーか!」

「うん。すごく可愛いよ」

 と、和泉守さんと安定くんが言う。

「よくお似合いです!」

「すっげーかわいい!」

 堀川くん、浦島くんも続いた。

「ほ、ほんとに……? 変じゃない?」

 恐る恐る聞くと、清光くんが吹き出した。

「みんながこう言ってんだから、素直に受け取っときな」

「そ、だね……うん、ありがと」

 照れくさいけど、褒めてもらえるのはやっぱり嬉しい。

「長曽祢さんも、何か言ってあげてよ」

 乱ちゃんが長曽祢さんに近づき背中を押した。そういえば、長曽祢さんはひとことも発していない。も、もしかして変だった……? とまた視線が下がりがちになっていると。

「……あー、その」

 長曽祢さんは指で頬をかき、

「……驚いた。こんなに……雰囲気が変わるとは」

「ちょっとーっ! 他に言い方ないのー?」

 乱ちゃんが頬を膨らませていると、国広くんと和泉守さんが私の両脇に並ぶ。

「主さん、気にしないでくださいね」

「おう。長曽祢さん照れちまってるだけだからな」

「お前たちっ!」

 長曽祢さんが一喝すると、ふたりはわいわい言いながら逃げてしまった。

「あはは……長曽祢さんがいじられてるの新鮮」

 昔馴染みの気心知れたやり取りを見て、思わず顔が緩んでしまう。

「祭りだからと浮かれすぎだ、全く……」

「でーもー、まんざらじゃないんでしょ?」

「清光っ」

「おーこわ。じゃ、俺は退散しよっかなー」

「僕も。お邪魔しちゃ悪いもんね」

「ボクはいち兄のとこ行くね!」

「俺も蜂須賀兄ちゃんのとこ行ってくる!」

 あっという間にみんながいなくなり、私と長曽祢さんのふたりきりになってしまう。
 ……えーっと。どうしよう。

「あー、主」

「なっなに?」

 長曽祢さんは、視線を少し迷わせてから、意を決したように真っ直ぐ私を見た。

「綺麗だ。本当に」

 どくり

「あ、な、長曽祢さんも、すごく似合ってる。格好いい、よ」

「……そうか」

 どくり、どくり

「あんたにそう言われるのは、嬉しいな」

 どくん

「……主、長曽祢さん」

 はっとした。

「ん、小夜左文字か」

「これ……兄様たちが配って回ってる。飲み物」

 小夜くんが抱えた桶の中に、ペットボトルのお茶とラムネの瓶がいくつか収まっていた。

「お酒が良かったら、向こうで長谷部さんと宗三兄様が管理してるから、そっちで」

「酒は許可制なのか」

「そうしないと底なしに呑む刀と槍がいるから……」

「はは、それもそうだな」

「あ、ありがとう小夜くん。私はラムネもらおうかな」

「おれもそうしよう」

「あ。あと、そろそろ乾杯の合図に来て欲しいって」

「うん、分かったよ。……行こう、長曽祢さん」

「ああ」

 設営された会場はすごかった。まさか屋台まで出来ているとは思っておらず、さながら縁日のように賑わっている。私が乾杯の合図をしたあとはみんな思い思いに楽しんでいて、私も粟田口の子に混ざって花火を楽しんだり、陸奥守くんがおもちゃの拳銃で射的の屋台を作ったところにお邪魔したり。燭台切さんが張り切って作ったずんだ餅を食べたり、行き合う刀たちに浴衣姿を褒められてまた赤くなったのを長曽祢さんに笑われたり。まるで現代のお祭りに来たみたいで、楽しくて、懐かしくなった。
 お祭りなんて、それこそいつぶりだろうか。ここで、こんなふうに過ごせる日が来るとは思ってもみなかった。審神者に選ばれた日、そして引き継ぎの打ち合わせをしたあの日、どれを振り返ってもここに繋がる未来は想像もできないだろう。
 でも、繋がった。繋げてくれたのは、言うまでもない。

「……どうした? 主」

「ん、なんでもない」

 ――心臓が、へんな音を立てているのには、今日はもう気づかないでいよう。そういうことにしなければ、私の中の何かが大きく大きく変わってしまう気がする。その何かは分からないけど、変えるのは今じゃなくてもいいか、と思ったりした。

「ああ、楽しかったなあ」

 主とふたりで溜池のほとりに作られた長椅子へ座ると、幸せそうにため息を溢していた。

「まさか屋台まで作られているとは、おれも知らなかったなあ」

「陸奥守くんの射的、面白かったなー!」

「あんたは一発も当てられていなかったがな」

「うっ……そういうのはいいの! 思い出を作ったの私は!」

「はは、そのとおりだな」

 今日は、主の知らなかった表情を沢山見ることが出来た。射的で苦戦し悔しがる顔、かき氷の冷たさにほころぶ顔、短刀たちと共に花火ではしゃぐ顔……どれも、彼女がこの本丸に来て初めて見るものばかりだった。思い出を作ったのは、おれも同じだ。

「やーしかし、ここの夏は夜涼しくていいね。現代にいたころでは考えられないや」

「主の時代では、夜も暑いのか?」

「もうめちゃくちゃに暑いよ。湿気とかもすごいし……本丸とは、大違い」

 そう言って、彼女は視線を彼方に向けた。おれの知らない時代に思いを馳せるように、遠く、遠く。

「でも、懐かしいなあ」

 じり。
 と、なにかが胸を焼いた。

「……主、」

「主さーん! そろそろ閉幕の挨拶しようって!」

 浦島が手を振ってこちらに走ってくる。

「はーい! ……長曽祢さん、なにか言いかけた?」

「いや、なんでもない。先に行っててくれ」

「そう? わかった」

 皆が集まる場所へ向かう主の背中を見送っていると、入れ違いに浦島がやって来た。

「いいとこ邪魔しちゃった? ごめんね」

「邪魔もなにも……おれと主の間には何もない」

「とぼけちゃって! 俺にまで隠さなくたっていいのに」

 浦島は白い歯を見せて笑っていた。しかし、おれはその言葉に何も返すことができない。
 おれと主の間には、何もないからだ。そう、何一つない。あるのは主従という関係だけだ。
 だからこの胸を焼くような感覚はあってはならない。おれが抱えていていいものでは、ない。

「なんのことやら」

 そう言って立ち上がり、浦島に背を向けて歩き出す。
 だが。

「遠慮してるの? 蜂須賀兄ちゃんと……先代さんに」

 その言葉に、足を止めた。止めてしまった。その意味を、敏い弟が分からないはずがなかった。

「俺、みんなのことが好きだよ。長曽祢兄ちゃんも、蜂須賀兄ちゃんも、先代さんも当代さんもみんな。だから、ひとりで抱え込まないでね。……抱え込めるなんて、思わないでね」

 かつての光景が脳裏に呼び起こされる。
 泣き崩れる主。枯れゆく桜。揺れ動くふたつの心が、結びを解いたあの日。
 あの日の痛みをまだ覚えている。だからこそ、この感覚は捨て置かなければいけない。おれはもう、本丸から『主』を失いたくはない。

 止まっていた足を再び動かす。浦島を振り返ることもせず、おれは祭りの残り香にその身を紛れ込ませた。