あれは、よく晴れた冬の日だった。俺は一人分の膳を運びながら、午後に残ってしまった雪かきのことを考えていた。御手杵や蜻蛉切は遠征に出てしまっており、薙刀連中は屋根の雪下ろし、残った太刀や打刀もそれぞれの持ち場を右往左往していた。これでも所帯が増えたのは幸いなことで、この本丸の発足当初、それはそれは苦労したものだ。
よその本丸に比べ俺の顕現は早いほうだった。数少ない槍とあって出陣や遠征はもちろん、近侍を長く勤めたこともある。だからこそ、主はこの役目を俺に任せていたのだろうと思っていた。
一度膳を置いて襖を開けると、部屋の主は布団から上体を起こして外を眺めていた。
「なんだ、起きてたのか。黙って開けちまって悪かったな」
「いいのよ、気にしないで。ありがとうね」
「今日は調子がよさそうだな」
「ええ。さっき短刀の子たちが雪遊びしてる声も聞いたわ」
「……そりゃ叱る案件だな。あいつら今日は畑っつったのに」
「ふふ、こんなに雪が降るのなんて久しぶりだから、みんな嬉しいのよ」
だからあんまり怒らないであげてねと、彼女はゆったりと口角を持ち上げる。年齢相応に刻まれた皺が、彼女の表情をより柔らかいものにしていた。
この本丸は夫婦で発足したものだった。と言っても審神者であるのは夫のほうで、妻は子どもがいないこともあって共に本丸で暮らすことを選んだ。政府も血縁者や扶養家族であれば住み込みを許可しており、そのようにして本丸に家族を招く審神者も少なくない。この本丸もそのうち一つだった。
順調な暮らしだった。夫の霊力は遅咲きではあったが確かな素質があり、就任以降目覚ましい活躍が続いていた。妻は多忙な夫に代わり本丸の内側を、男士たちの母のような立ち位置で取りまとめていた。そんな二人を男士たちも甚(いた)く尊敬しており、二人も男士たちに深い愛情を注いでくれていた。
一変したのは、妻が病に倒れてからだ。
暮らしに問題があったわけでも、本丸の霊力に耐えられなかったわけでもない。現世で生きている人間と、なにも変わらない確率で、たまたまその病にかかってしまった。
ただ、それだけだった。
「僕は、君に生きていて欲しい。少しでも長く」
審神者は妻の、すっかり痩せ細った手を両手で握りながら、震える声で懇願した。
「いいえ、私はここに残るわ。最期はあなたたちに看取られたいから」
「病院にいればもっと良い治療法が見つかるかも知れないのに」
「でも私、ここから離れたらきっと心が耐えられないわ。だから、お願い。側にいさせて」
ついに審神者は泣き出した。温厚で、滅多に感情を揺らがせない審神者があんなに涙を流したのは、これが最初で最後だった。
『これは午睡のようなものです。私はあなたより先に長い午睡につくけれど、どうか悲しまないでください。あなたはあなたの生を全うして、それから会いに来てくださいね。待っています。』
式で読み上げられたその遺書に、男士たちはみな涙を流した。泣いていなかったのは審神者と……俺くらいなものだっただろう。
覚悟をしていたとか、諦めていたとか、そんな清らかな感情ではない。人ひとりが生きて、そして死んだ。俺にとってはそれ以上も以下もなく、ただ、心のどこかでぼんやりと靄がかかったような心地がしたことだけは覚えている。審神者の妻に関する記憶はそれだけで、それすらも年月を追うごとに思い出す時間が減っていった。
未登録名前に、出会うまでは。
「日本号」
名を呼ばれ、主と、極めた初期刀を前に、俺は静かに頭を下げた。
昨夜の出来事は紛れもない失態だ。この本丸に設けられた最低の門限時刻を過ぎてもなお戻らず、しかもその理由が――主には御見通しだったからだ。
「僕は言ったね。深酒にならないように、と」
「……ああ」
「それでも尚、入れ込むものがあったのかい」
「……」
咄嗟に、答えられなかった。沈黙は肯定と同義であると頭では分かっていたものの、言葉が、出てこなかったのだ。
しばしの沈黙ののちに、大きくため息を吐いたのは山姥切だった。
「あんたに限っては、そんな過ちを犯すようには思えなかったんだがな。ここにきて一体何があったんだ」
「……」
「どうしても答えられないか」
山姥切の目つきが険しくなる。それを、主の手が柔らかく制した。
「まぁ、まだ一度目だ。そう目くじら立てるもんじゃない」
「されど一度目、だ。常日頃から酒に呑まれるなと言っておきながら、これは――」
「山姥切」
ピシャリと、主の声が戦を指揮する時のような声音に変わった。さしもの山姥切もこれには瞠目し、背筋を正す。
「そろそろ遠征の部隊が帰ってくる頃合いだ。出迎えてやってくれないか」
一転して、主はにこやかに笑いかけた。山姥切は何かを言おうと口を開き――ぐっと堪え、分かったと言って部屋を出て行った。しっかりと、俺のほうを睨め付けながら。
「……極めてから自信がついたのはいいものの、ちと自分にも他人にも厳しいな。遅れた分を取り戻そうと頑張ってるのは分かるけどね」
遅れた分、とは、まだ初であった頃の話だろう。写しである自分の身を蔑み、初期刀でありながら主とその妻に迷惑をかけたと――山姥切は今でもその思いが消えないでいる。
「修行も、妻が逝ってしまった後だったからね。妻に返せなかった分を今返そうと躍起になってるフシがある。お前もその辺りを汲んでくれるね?」
「……ああ、勿論」
「なら良い。さ、少し姿勢を楽にしてくれ。そして聞かせてくれないか」
お前が今何を考えているかを。
促され、俺は洗いざらい話した。何気なく足を運んだ遊郭で出会った、ある一人の女の話を――