夜に溶けたふたり

その日は、とてもきれいな夜でした。
満天の星は宝石箱をひっくり返したみたいにきらきらきらと輝いて、夜空の、黒いビロードをしいたような闇にぽつぽつぽつと浮かんでいました。
風は幾分吹いていて、ハイリア湖の湖面をさらさらなでます。その音がまた、鈴の音みたいにいい音なので、水面に浮かぶダークは気分のよさそうに目を細めていたのでした。
その時、ざぶん、という音がしました。
ダークは音のしたほうを振り向きました。そこには波紋が広がっていて、何かが湖に飛び込んだようでした。
何が飛び込んだのだろう。大きい音がしたから大きなものだろう。
そう考えたダークは、自分も、ざぶん、と湖に潜りましたが、それはただの好奇心で、特に何かしようというわけではありませんでした。ダークはそういう魔物です。自分に関係あるかどうかが大切なのです。
湖の底は暗くて、夜空と同じ色をしていました。星のかわりには、泡が浮かびあがってきます。
おかしいな、とダークは思いました。湖の底から、空気が出ていることになりますから、おかしいのです。
ダークはよくよく目を凝らして、底のほうを見ました。
動くものが見えました。そこから、泡は出ています。近づいてみると、それは人間の女でした。苦しそうに手足をばたばたさせて、もがいていました。
どうして人間が、と思っている間に、人間は動かなくなりました。身体をぐったりさせて、泡が浮かぶこともなくなりました。このままでは、この人間は、死んでしまうでしょう。ダークは迷いました。この人間をどうするか、とても迷いました。そうして、深くため息をついて――吐いた息は泡になり立ち上った――人間を抱えると湖面へ向かいました。

「……おい、起きろ」

ダークは岸に人間を引き上げると、頬を叩きました。それでも人間は起きる気配はありません。ダークはまたため息をついて、人間を抱き起こして、背中を思い切り叩きました。人間は目を覚まし、げほげほと咳き込みます。しばらく咳き込んで、収まると、人間はダークを見上げました。

「あんたが助けたの」

なぜだか怒っているようでした。

「なんだよ。助けたらまずかったのか」

「そうよ。せっかく死のうとしてたのに」

「……なんだって?」

ダークは耳をうたがいました。そして怒りました。
自分の住処であるこのハイリア湖で人死になんて、気分がよくないからです。人間が死ぬから怒ったんじゃないのかって?ダークは人の生き死にに興味はありません。魔物ですから。
ですので、ダークは人間に向かってこう言いました。

「おい女。死ぬならよそで死ね。ここは俺の住処だ」

すると人間はこう言いました。

「嫌よ。私、死ぬなら水の中って決めてるの」

「じゃあ川に行けよ」

「ここいらの川は浅くて死ねないわ」

「ゾーラの里」

「行ったけど、ここで死ぬって言ったら入れてもらえなかったわ。だから私はここで死ぬしかないの」

なんと、強情な人間なのでしょう。ダークは言葉を失いました。頭のなかで、どうやったらこの人間がここで死ぬのを諦めてくれるか、たくさん考えました。けれども答えはでません。
とりあえず、この場所から出て行ってもらうことにしました。
しかしダークが言うより先に、人間が口を開きました。

「あなた。魔物なんでしょう?」

「だからなんだ」

「私を殺してよ」

人間の目は、とても真摯でした。言葉もきっぱりとしたもので、本当に自分が殺されることを望んでいるようでした。
ですが、ダークは知っていたのです。水の中で人間が、とても苦しそうにもがいていたのを。
本当に死にたいのなら、もがくことはしないで、じっとしているものでしょう。もがく、ということは、つまり、生きたいということに他ありません。
なので、ダークは人間の矛盾した言葉に眉をひそめました。そして、言いました。

「断る」

「どうして!」

人間はわめきました。本当にこれから死ぬことを望んでいる人間が出す声か、と思うほど、力強いものでした。
ダークは頭を抱えます。

「ああこれ以上うるさい声を出すな。死ぬなら一人で勝手に死ね。本当に死にたいと思うなら」

「……」

人間は黙ってしまいました。うつむいているので、表情はうかがい知れませんが、きっと、本当のことを言われて図星だったに違いありません。
人間が大人しくなったので、ダークは人間に背を向けて湖の中に戻ろうとしました。
ですが、それはかないませんでした。人間が、ダークの服のすそをつかんだからです。

「離せ」

「私ね」

「聞けよ」

「恋人に捨てられてしまったの。新しい女が出来たから、もういらないって言われたの。だから、見返してやろうと思って死のうとしたの。でもできない。怖い。死にたくない。もっと生きたい」

人間は泣いていました。静かに、涙を流していました。

「だったら生きろよ」

ダークは言いました。人間は驚いたように顔をあげました。拍子にダークから手を離したので、ダークは人間に向き直りました。

「自分で生きたいと思ってるなら、生きればいい」

そう言うと、人間は困ったように眉をひそめました。

「でも私は、村に帰りたくない。あの人がいるから……」

「面倒くせえ。ならここに住めよ」

心底面倒くさい、という言い方の割には、優しい言葉でした。
でもダークは気づいていません。彼は、なんだかんだと面倒見がいいのです。それは彼の元になった人間によるのですが、それはまた別のお話。

「ここって……湖の中に?私息できない」

「中には建物がある。そこには空気もある」

「食べ物はどうするの」

「魚でも食ってろよ」

「魚だけじゃ栄養偏りそうね」

「たまに森へ行けばいいだろ」

「そうしたら町に行かないとね」

「俺は行かないけどな」

「どうしてよ」

「魔物が人間の町なんか行けるか」

「それもそうね」

人間は、くすくすと笑いました。それはとてもきれいな顔でした。夜空の星よりも明るい、太陽のような笑顔でした。

「笑えるんじゃねえか」

つられて、ダークも少し笑いました。

「本当。自分がまだ笑えるなんて、驚きよ。あなたのおかげね、ありがとう」

また、人間は笑いました。今度は優しい、斜陽のような笑みでした。
不思議な気分です。夜空を見上げていたときよりも穏やかで、水の中にいるときよりも柔らかな気持ち。
こんな気持ちにさせるこの人間の笑みが、ダークは好きになりました。そして、もっともっとみたいと思いました。

「人間。お前の名前は」

「未登録名前よ。あなたは?」

「俺はダーク」

「ダークね。よろしくダーク」

それから、奇妙な出会いをした奇妙な二人は、湖の中で暮らすことになりました。
めでたし、めでたし