山茶花の二十六日

山茶花の二十六日

 地面を舞う枯れ葉の数も減り、風景から色が失われて行きつつある時分。迫る年末に向けて本丸はにわかに忙しさを増していた。普段の出陣や遠征に加え、本丸内の大掃除や、年末年始は閉まる万屋街へ必需品の買い出し等、やることは山積みだ。
 そして、私も。いつにも増して外出する時間は減り、食事すら客間で簡単に済ますことが増えた。理由はもちろん、かの職員による視察の結果、だ。
 おそらく職員が上手く取りなしてくれたのだろう。政府から見たこの本丸の状態は『要経過観察』程度に留まっていたが、結びがほどけつつあるという現実は何も変わらない。普段の業務と年末調整、それに本丸の行き先を考えるとなれば、時間がいくらあっても足りなかった。

「主さん」

 ひょこりと客間を覗き込んできたのは浦島くんだった。一歩遅れて亀吉くんも、浦島くんの足元からこちらをうかがっている。

「そろそろ休憩取ろうよ」

「あー、でも、あとちょっと」

「だーめ。今日のおやつ、絶対食べさせなさいって歌仙さんに言われちゃったんだもん。最近ちゃんとしたもの食べてないって、長谷部さんも心配してたよ」

 そう言って浦島くんは私の前にお盆を差し出した。載っていたのは湯呑みと急須、それから柔らかなこがね色をした芋羊羹。歌仙さんの手作りだというそれが、二つある。
 そう、長曽祢さんは今、ここにいない。

「俺も一緒に食べたいからさ。ね?」

「そ、だね……そうする」

 力無い返事にも浦島くんはにこりと笑った。お盆から芋羊羹を乗せた小皿を取り分け、お茶を注いでくれる。その光景をぼんやり眺めながら、最近の出来事を思い返していた。
 長曽祢さん。相変わらず近侍を務めてくれてはいるが、あの日以来なんとなく声がかけづらくなっていた。向こうもそれを察しているのか、最近は買い出しや出陣などで本丸を空けることの方が増えた。会話があるとすれば仕事のことばかりで、以前のように雑談をして笑ったり、本丸内を散歩することがなくなった。
 今日も第一部隊を率いて出陣中だ。これは長曽祢さんからの要望でもあった。上手く話せない私に気を遣ってくれてのこと、だと思う。
 なのに、先代と並んで立っていたあの姿が、頭から離れない。ずっと。

「主さん?」

「ぅえ、あ、ごめん。ぼーっとしちゃって」

 あははと笑いながら芋羊羹に手をつける。歌仙さんの手作りとあって、しっとりとした食感と自然な甘さが心地よかった。

「んーさすが歌仙さん。美味しいねえ」

「……主さん」

 いつになく真剣な声。

「長曽祢兄ちゃんと……何かあった?」

 あやうく羊羹が喉につかえるところだった。
 お茶を流し込んでやり過ごし、浦島くんに向き直る。

「何にもないよ。喧嘩してるふうに見える?」

「見えないけど……」

「なら」

「でもっ」

 浦島くんは、ぎゅっと眉根を寄せた。

「でも、なんか……なんか、ふたりとも変なんだ。上手く言えないけど、前と違うよ」

 違う。
 その言葉は、私にはつらい。けれど浦島くんがそう思うのも当然だ。だって私がそういうふうにしたのだ。私は、彼らとの間にある線を引き直さなきゃいけない。そうしなければ、この本丸はまた同じ道を辿ってしまう。
 私ではこの本丸のほんとうの主には成れないのだから。

 そのとき、玄関口から訪問者を告げるチャイムが鳴った。時計を見ると指定配達の時間であることに気づく。

「頼んでた荷物来たみたい、行ってくる」

「あ、じゃあ俺が運ぶよ」

「私物だし、大した荷物じゃないから大丈夫だよ」

「俺がやりたいのっ!」

 ニコッと元気よく笑いかけられては断れるはずもなく、私は浦島くんと連れ立って玄関口に向かった。
 通販サイトも配送も民間の業者であるが、運ばれる荷物や配達人は全て政府の検閲を通っており、そこで交付される『通行手形』で本丸に敷かれた結界を通れる仕組みになっている。なので、審神者がいちいち結界を解いて配達人を門まで迎えに行く手間も、配達人が荷物を抱えて門で待つ必要もない合理的なシステムだ。

 だから、私たちは油断をしていた。

 玄関口に着くと、台車に載せられた荷物と共に待っていた配達人が、板型の端末をこちらに向けてきた。受領のサインも電子化されているので、私はその端末に人差し指を乗せ

「ダメだ!! 主さん!!」

 瞬間。目の前の配達人が泥のように溶けた。残った衣服が地面に散らばると黒いモヤのようなものが立ち上りそれを形作る。
 時間遡行軍、短刀。
 認識するより速く、光る刃が私の喉元目掛けて飛び込んだ。

 ドンッ

 衝撃は、背中に受けた。
 反射的に閉じていた目を開く。
 浦島くんが、私のお腹に覆いかぶさっていた。
 背中から多量の血を流しながら。

「あ、ぁ」

 何の装具も、刀装も付けていない浦島くんの身体は、敵短刀により深々と切り裂かれた。事実を理解するまで時間がかかった。なのにあたりにはくらくらするほど鉄の匂いが立ち込めて、しがみついている浦島くんから徐々に力が抜けていく。重傷。誰が見てもひと目で分かる。分かってしまう。

 私を、私なんかを庇ったばかりに、浦島くんが、

 ――折れる。

「でぇりゃああ!!」

 咆哮。それと共に私に差し迫っていた敵短刀が両断された。地面に落ちると同時にそれは霧散し、影も形もなくなると長曽祢さんが私に駆け寄った。

「主!! 浦島……!!」

「どうした! 何事だ!」

「主君!?」

 きっと、第一部隊が運良く帰還した。それで助けてもらった。その声を聞いて、本丸の奥からみんなが集まってきたんだろう。
 ぼんやりしている。まるで目の前の景色が遠い世界の出来事のようで、現実味がなくて、音も、なんだか遠く聞こえる。それなのに自分の心臓が、痛いくらいに音を立てている。
 どうして。なにが。分からない。なにも、私は。

「しっかりしろ!」

「浦島、浦島!!」

 ふらつく私の肩を長曽祢さんが抱きとめる。同時に、蜂須賀さんが私にもたれたまま動かない浦島くんを抱き起こした。

「主! まず止血だ!」

 長曽祢さんの一喝ではっとする。そうだ、手入れを。手入れをしなければ。
 私は自身の霊力を編み、浦島くんの神気と結びつけるべく両手をかざした。
 しかし。

「……主?」

 全身から血の気が引いた。
 霊力が。まるでどれだけ掬っても指の間から抜け落ちる水のようだった。私の霊力は、全く浦島くんと結びつかない。

 結びつかない・・・・・・

「どうしよ、どうしよう」

「主、一体――」

「結べないよ」

 その言葉を、どんな顔で言ったのか、自分でも分からなかった。けれど長曽祢さんが、凍ったように目を見開いているのが、胸を焼くように苦しかった。
 不意に。
 どろんという音とともに政府派遣の管狐、こんのすけが現れた。呆気に取られる一同をよそに、こんのすけはすたすたと私の前に歩み寄った。

「緊急事態です。当本丸に重大なエラー・欠損を確認しました」

「こんのすけ! 時間遡行軍が……!」

 なお狼狽える私の代わりに長曽祢さんがこんのすけに呼びかけている。おそらく彼は状況だけでおおよその出来事を把握したのだろう。
 しかしこんのすけは、やはり普段と変わらない口調で淡々と告げる。

「ええ。各所で同様の被害を確認しています。時間遡行軍が配達員を襲い、骸を使って成り代わった模様です。それについては政府の方で急ぎ被害状況の調査確認と対応策を講じていますのでご安心を。……それよりも」

 こんのすけはもう一歩、私の前に歩み寄った。

「現時刻を以て、この本丸と審神者の結び付きが完全に解けたことを認めましました。現在この本丸は、本丸としての機能を失っています」

「何だと……」

「このままでは手入れが行えません」

 みんなが一斉にどよめいた。私の肩を抱く長曽祢さんの腕にも力が入るのが、分かった。
 私にはもう、みんなが何を言っているのか聞き取れない。頭がガンガン鳴っていて、鼓膜は痙攣して、目の奥もじわりと熱を持った。

 私のせいだ。
 ぜんぶ、私のせい。
 私を庇ったばかりに、浦島くんが折れてしまう。
 私がここを引き継いだせいで、本丸が機能しなくなる。

 私なんかが、みんなの主になりたいと思ってしまったせいで。

「っげほ、げほ!」

「浦島!」

 蜂須賀さんに抱えられていた浦島くんが大きく咳き込んだ。閉じられていた瞳がゆっくりと開き、若草色が私に向く。

「あ、るじ、さん……無事?」

「わ、私……無事、無事だよ!」

「良かっ、たぁ……へへ」

「ダメ、それ以上しゃべっちゃ……!」

「俺なら、だいじょぶ……だから。だから……元気に、なったら、また、遊んでよ……」

 俺、主さんと遊ぶの、好きだなあ。
 そう言って浦島くんは、再び目を閉じた。

 ああ、もう、ダメだ。

 私は長曽祢さんの腕を振り払い、立ち上がる。

「ごめん、みんな」

 もう、こんな言葉しか残ってない。

「私がみんなのほんとうの主じゃないから、ごめん」

 私は、この本丸に来て初めて、全てを投げて逃げ出した。
 だけど。
 逃げて、走って、息を切らせて。それで何になるというのだろう。本丸との結びはほどけてしまった。私はもう主じゃない。なら考えなきゃいけないのは、浦島くんを治してくれる人を探すこと、そして本丸の解体措置を避けて、新しい引き継ぎを探すこと、なのに。
 でも、でも嫌だ。嫌だ、嫌だ。私は、まだここにいたい。もっとみんなと一緒にいたい。みんなとまだまだ思い出を増やして行きたい。なのにどうしてそれがいけないことなんだろう。私じゃ相応しくないから? 何かが足りないから? 分からない、分からない、分からない。

 私にはもう、何もないよ。

 は、と顔を上げる。そこにあったのは一本の枯れ木。かつて長曽祢さんが案内してくれた、あの千年桜だった。
 私は、きっと無意識に、ここに来てしまった。

「……なんで、なんで!」

 私はその桜に向かって、拳を叩きつけた。

「咲けよっ……この、咲いてよ!! ねえ!! 咲いてよぉ……なんで……」

 どれだけ叩いても、乾いた幹はパラパラと剥がれるだけだった。それが憎くて憎くて仕方がなくて、でも、当然のことなんだと嫌でも実感させられた。
 分かってる。咲くわけがないなんてことは。でも、あの日の長曽祢さんの言葉が、どうしたって蘇ってしまう。

 ――おれは、この桜がもう一度咲く日は近いと思っている

 その言葉に応えたかった。
 けど、もうダメなんだ。
 どう頑張ったって結ばれない。
 最初から、そんなこと分かりきってた。
 なのに私がそれを望んでしまった。

 長曽祢さんは今もあの人のことを想っているのに。

 私が、長曽祢さんを好きになってしまったせいだ。

 主の悲痛な声に、反応できるものは誰もいなかった。おれ自身も、腕の中にあった温もりが消えていくのを、ただ黙して耐えていた。
 同じだ。あの日と。先代が涙を流しておれに頭を下げたあの日。皆の時間が止まり、深い悲しみに包まれて、それでもようやくまた前を向けると思っていたはずなのに。
 なのに、何故。――何故!
 おれは深く息を吸い、丹田に力を込めて立ち上がった。

「薬研。応急処置の準備を頼めるか」

「あ、……ああ! すぐに道具取ってくる!」

「手が空いているものは薬研の手伝いと、それから担架を。……それで、こんのすけ。浦島を救う手立てはあるか?」

 こんのすけは浦島に近づくと、電子画面を展開させた。

「――政府の施設で治療をすれば、或いは。ですが主以外の審神者の力では完治に相当な時間がかかります。それに、ここまでの重傷ですと必ずしも助かるとは限りません」

「それでいい。手配してくれ」

「承知致しました」

「長曽祢さん! 良いのかよそれで……!」

 同部隊だった和泉守が声を荒げた。無理もない、これは勝ち目の薄い博打のようなものだ。

「他に方法がないのなら、それに賭けるしかないだろう。……本丸と主の結びがほどけてしまった以上は」

 その言葉に、さしもの和泉守も苦虫を噛み潰したように押し黙る。
 助かるかも分からない方法に縋るのが正しいのか、正直なところおれ自身にも判断できない。だが、もしこの場に主がいたなら間違いなく同じ選択をしていただろう。その想像が出来るほどには、彼女の傍に居たと自負している。
 ここで浦島を折らせる訳にはいかない。もしここで浦島が折れたら、主の心に一生分の深い傷を負わせてしまう。大事な弟と、大切な主の心を守りたい。これ以上はもう、何も失えない。

「大丈夫だ。浦島は、……虎徹の真作は、こんなところで折れる刀ではない」

 失うものはおれの想いだけでいい。
 今、主の心を守れるのは――

「何をしている」

 その静かな怒声は、初めて聴くものだった。

「蜂須賀……?」

 蜂須賀は自身の羽織を裂いて浦島に巻きつけながら、言い放つ。

「ここのことはいい。お前は主を追え」

 それは。
 その役割を担うのは。

「お前が言ったんだぞ。虎徹はこんなところで折れない。ならお前は自分がすべきことをしろ」

「しかし、おれは――」

 その時。
 蜂須賀は、虎徹の牙を剥き出しにした。

「あんたは! 折れず曲がらず、主を守る刀だろう! 長曽祢虎徹!!」

 ――おれは。
 駆け抜ける風のように地を蹴った。迷いなく、淀みなく、両の足が幾度も歩いた道のりを辿る。
 主の元へ。
 今や真作も贋作も、先代も当代も関係ない。そんな些細なものに縛られて、本当に大切にしたい者を守れないなら意味などない。
 おれは主を守りたい。おれ自身の手でもう一度、あの柔らかい手を取れるなら何だってしよう。たとえこの声が届かなくても、会ったところで何も変わらなくとも。

 おれは、彼女を、心から愛している。