俺は皆のように『先代』『当代』とは呼べなかった。
俺にとっての主は顕現してくれたあの方で、今の彼女のことを主とは、言えない。無論、頭では分かっている。審神者を辞めなければ主は死んでしまう。その主が守った本丸を支えるためには、あの彼女を手助けする必要があると。
だが、だが。
本丸の下足置きから主の靴が消え、代わりに彼女のものが入るようになった。皆の口から主の話が減っていった。主の間に明かりが灯ることがなくなった。声が、足音が、気配が。この本丸から徐々に失われていくのが堪らなく恐ろしかった。
「長谷部、本丸をお願いします」
最後に主が言っていた。この耳はまだそれを覚えている。その時どんな顔をしていたのかも、ありありと思い出せる。いや、思い出にはできない。したくない。俺にとっての主は、あの人だ。花が綻ぶように笑い、凛とした声で皆の先導に立ってくれた、あの人だけだ。
「長谷部さん」
深夜も一時を過ぎた頃。寝苦しさを覚えた俺は水でも飲もうと厨を訪れたのだが。
「……何を、していらっしゃるので?」
彼女は顔を引き攣らせ、持っていた袋麺を隠すように両手で包む。
「あー……ほんとごめん、燭台切さんには黙っててくれる?」
「いえ……」
俺は厨番ではないし近侍でもない。そも、主だと呼んだことはない。だから彼女が今しようとしていることに対して咎める立場にない。
端的に言うと、どうしたらいいのか分からないのだ。
今まで意識的に避けていた。彼女もそれを察していて、必要以上に会話しないようにしていた。だからこそ、こうしてバッタリ出会ってしまい心底戸惑っている。
今なら見なかったふりをして踵を返すことも出来る。そう思い俺は一歩後ずさって、
「あっ長谷部さんにも分けてあげよう」
「は?」
「そしたら共犯だもんねえ」
すると彼女は今までの表情から一変、急ににこやかに笑って袋麺を開けた。片手鍋を取り出して水を入れ、コンロに火を入れる。
「……あの、俺は」
「いらない? それとも塩ラーメン嫌いかな。……ってこれ長曽祢さんの聞き方が移ってるなあ」
「……何故、ですか」
片手鍋の水が、ふつふつと煮え始める。
「何故あなたを主と呼ばない俺にそうまでしてくれるのですか」
沸騰した水に、彼女は静かに麺を入れた。
「聞けると思ったから」
「何を――」
「主のこと」
彼女は菜箸で麺をほぐし始める。
「みんなは私に気を遣って、あんまり話さないようにしてくれてるんだよね。けど、私は知らなきゃいけないと思うから。この本丸と主が、どうやって、どんな道のりを歩いてきたかをさ。歴史を守るのに、身近な歴史も知らないでいるのはなんか、イヤじゃない」
すっかりほぐれた麺を一煮立ちさせると、やがて彼女は火を止めた。
「それを聞けるのは、長谷部さんしかいないかなって」
徐にザルを取り出すと、麺をそこに空けて流水に晒した。その間に器を二人分用意し、スープを開けて水で溶く。冷えた麺を器に入れ、調味料棚から胡麻を、冷蔵庫に備蓄している薬味から葱を添えると、彼女は俺に差し出した。
「これ、冷やして食べても美味しいんだよ」
主は。
こんな時間に夜食など食べなかった。和食が好きで、でも料理は不得手で厨に立つことはなかった。
主は。
彼女は、確かにここにいた。
「――先代は」
俺は、冷えた器を受け取った。
「真っ直ぐで、ひたむきで、――心優しい方、でした」
彼女は一瞬驚いた顔をしていたが、すぐに頬を緩ませた。
「そっか」
「ええ」
おそらくこの本丸を引き継いでもらって初めて、心から笑むことが出来た気がした。