その日は朝から最悪だった。仕事をミスって首になる夢を見て目覚め、ベッドから降りたら足をひっかけて転んだ。電車は遅延していたし、仕事のミスはなかったものの残業を頼まれて只今午後9時を回ったところである。
はぁ、と深々ため息をついても誰も聞いている人はいない。いいんだけど。今とんでもない顔をしているだろうから別にいいんだけど。
もう一度ため息をついたところで、冷めきった缶コーヒーを一気に飲んで最後の作業を終わらせた。
最悪の気持ちのまま会社を出て、近くのコンビニへ向かう。晩ご飯を作る元気なんかあるわけないし、外食する気分でもない。一刻も早く家に帰って適当に食べて眠ってしまいたかった。
自動ドアをくぐって、見慣れきった店内のお弁当コーナーから、すっかり売れ残ったものから適当に見繕う。そこに侘しいとかそんな感情はとっくになくなった。なんなら店員さんも顔見知りレベルに到達しているので恥ずかしいとかいう感情もどっかに行った。
適当にかごに放り込んでいると、スイーツの棚に目が行った。ほとんどカラになっていたが、一つだけ残っているものがあった。確か、有名パティシエとコラボしたとかいうこのコンビニの新作ティラミス。ちょっとだけSNSでバズってた気がする。
それが一つだけ残っている。これは、もしかしたら、神の思し召しというやつなのかもしれない。神様はしんどい私を見捨てなかったのかもしれない。そう思うと、自然と手が伸びていった。ちょっと高いけど、たまにならいいだろう。
「あ、」
隣から男の子の声。振り向くと、まだ学生らしい若い男の子が、私の手におさまりつつあるティラミスを見つめていた。少し珍しい、赤みがかった髪と瞳。日が描かれた大きなピアス。それから額に火傷痕のようなアザがあった。もちろん初めて見る子だ。
その間、およそ5秒。
「どうぞ」
私はその子にティラミスを譲った。
「え、で、でも!お姉さんが最初に」
ああお姉さんなんて呼ばれるのいつぶりだろう……なんて妙に感慨深く思いながら、私はその子にティラミスを差し出した。
「気にしないで。どうしてもこれが欲しかったわけじゃなくて、残ってたからなんとなくってだけだから」
「それでもお姉さんが見つけたものを横取りするわけには!」
「いやいいって」
「俺も妹が気になってたものを見つけたってだけですから!」
「君のほうがちゃんと理由あるんじゃない!?」
「お姉さんこそ遠慮せずどうぞ!」
「頭固いな君は!」
は、と気づく。レジの奥で店員さんがじっとこっちを見ている。顔馴染み(だと思っている)とはいえ、ややこしいことを起こしてしまうとさすがに今後来づらい。
もう一度男の子を見ると、決して譲らなさそうな強い瞳をしている。仕方がない。
「じゃあ、ありがたく……」
「はい!」
なぜか嬉しそうな顔をしたので、私は思わず吹き出した。
「どうかしましたか?」
「あ、ごめん……ふふふ」
男の子はハテナマークを浮かべていたが、それもまた面白くて、私は一人で笑ってしまっていた。初対面の相手に失礼なことだとわかっていたが、今どき珍しい性格の子に優しくされて嬉しかった。男の子にもう一度お礼を言って、受け取ったティラミスをかごに入れた。男の子が満足そうに店を出たので、私はレジに向かった。
最悪な日だと思っていたが、最後の最後でいいこともあるものだ。まだまだ捨てたもんじゃないな人生。なんて、少し大げさだけれど。
精算が終わり、コンビニを出る。すると、さっきの男の子が入り口の横に立っていた。
「あれ、まだ帰ってなかったの」
「はい。お姉さんを待っていました」
「え?」
「ちゃんとお礼を言わなければと。……さっきは譲っていただいて、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げるものだから、本当に今どきの子なのだろうかと感動する。
しかしこちらも、もらってばかりでは申し訳ない。私はコンビニの袋から、さきほど買ったペットボトルのお茶を取り出した。
「かわりにこれ、あげる」
「え!そんな、お気遣いなく!!」
「声大きいよ」
「あっ、すみません」
ほんとうに、この子はまっすぐなんだな。
私はまた笑ってお茶を男の子の手に押し付ける。こんなに笑うのもいつぶりだろう。
「いいからもらって。私の気が済まないからさ。お願い」
そう言うと、男の子はしぶしぶといった調子で受け取った。
「……ありがとうございます。お優しいんですね」
「ふふ。それ、君が言うの」
「いえ、でも――」
男の子は、押し付けられたお茶をぎゅうと握りしめてから、「匂いが」と言った。
「匂い?」
男の子が顔を上げる。
目元を綻ばせて、ゆるやかに口角を上げて。
優しそうに、微笑んだのだ。
「はい。あなたからは、優しくて、素敵な匂いがします。まるで、新緑の森の中にいるような」
――普通は。
初対面の人にこんなことを言われたら、何を言っているんだろうと思うだろう。
けれど私はそう思わなかった。この男の子の、声が、言葉が、どこまでも私の中に染み込んで、水のせせらぎみたいに気持ちを落ち着かせてくれる。
ずっと、聞いていたい、と思う。
「あ、あはは!お世辞がうまいなー君は」
「お姉さん?」
「ありがとうね、本当に。じゃー私ももう帰るからさ!君も気をつけて帰ってね」
「は、はい……あっよければ途中まで送りましょうか」
「だいじょーぶ!君も早く帰ったほうが良いよ、妹さんが心配するでしょ?」
「それはまぁ……本当に大丈夫ですか?」
「平気平気!家も近いし。なんと電車で2駅、徒歩5分!」
ビッと指を立ててみせると、男の子は少し面食らっていた様子だったが、ややあって、ふっと綻ぶように笑った。
「分かりました。では駅まで。それならいいでしょう?」
本当に頭の固い子だ。けれど今はその優しさが嬉しい。
「じゃあ駅までよろしくね。えーっと……」
「俺、竈門炭治郎っていいます」
「竈門君か。私はね――」
自分の名前を告げると、竈門君はまた嬉しそうに笑う。まるで弟ができたみたいだな、と思った。
今日はもしかしたら、最悪ではなかったのかもしれない。竈門君に出会うために全ての運がここで使い果たされたのかも。
そんなことを考えるくらい、私にとって竈門君との出会いは衝撃的で。
以降、コンビニに行くと彼の姿を探すようになった。でもこちらは会社員、相手は大学生ということで会うタイミングはなかなかなかった。
けれども縁というものも、私に味方してくれるらしい。
「お姉さん!やっとお会いできました!」
新緑の森みたいだ、と思った。
あの夜に初めてあの人を見て、強く感じたことだった。優しくて柔らかい、落ち着く匂い。
それだけだったら、良い人なんだなと思って終わった。けれど、あの人から漂う別の匂いがどうしても気になった。
深い夜の底みたいな匂い。その匂いのせいで、新緑がかき消えそうになっている。
嫌だな、と思った。
こんなに素敵な匂いがあるのに、消えてしまうのは嫌だと思った。だから俺は、お姉さんともう一度会いたかった。あの新緑をなくしたくなかったから。
……なんて、まだまだ言えそうにはないけれど。
「竈門君」
お姉さんがゆるく手を振りながら歩み寄る。お姉さんが定時で帰れるときはこのコンビニで待ち合わせるのがすっかりお馴染みになっていた。先日は俺も帰りが遅くなったからたまたま会えたけど、普段はお互いの帰宅時間は合わない。
「今日も寒いねえ。あったかいものでも買おうよ」
「ダメですよ。そう言って余計なものを買うんですから」
「竈門君厳しいなぁ」
そう言いながらも、どこか嬉しそうなのを知っている。新緑の匂いが増していくから。
気付かれないよう少しだけ大きく息を吸ってから、お姉さんと並んで歩き出す。
「竈門君、今日なんか面白いことあった?」
「唐突ですね」
「私は代わり映えのない毎日送っているからねぇ……若い子が羨ましくて」
若い子、と言われる度にもどかしさを覚える。決して埋まることのない距離。たった数年違うだけなのに、そのはずなのに、まだ子どもだと言われている気がした。
「そんなこと、ないでしょう。俺はお姉さんの話聞きたいです」
そんな気持ちを押し込めて、まっすぐ前を向いて歩き続ける。
お姉さんは「本当、気遣いができるいい子だねえ」と笑った。
「といっても、やっぱり話題はないんだけど」
「なにか変わったこととか」
「ないなー……あ、そういえば今度同僚とご飯行くよ」
「なんだ、あるじゃないですか」
「休憩時間にー、だけどね」
お姉さんはあまり自分のことを話さないから、少しでも聞けて嬉しくなる。きっとお姉さん自身も楽しみなんだろう、そんな匂いがした。
「同僚さんて、どんな人なんですか?」
「んー、そうだなぁ。よく喋る人だよ。感情表現豊かというか。私、そんなに喋るの得意じゃないから羨ましいかな。男性なのに珍しいよね」
腹の底が、熱くなった。
「男性、なんですか」
「そう。入った時から仲良いの」
仲が良い男性で。一緒に食事をする間柄で。……それが楽しみで。
どくどくと心臓が鳴る。背中には冷や汗。自然と拳が握り込まれ、喉の奥が痛んだ。
新緑が。
この人が纏う新緑の森の匂いが、消えてしまうのが嫌だった。寂しそうな夜の底に沈んでしまうのが嫌だと思った。だから俺から声をかけた。俺と話していたときは、新緑の匂いが強くなったから。それなら自分にできることはないだろうかと、ただそれだけだった。
それなのに、今、こんなにも。
この感情の名前を知らないほど、俺は子どもじゃない。
「竈門君?」
自然と足を止めていたらしい。少し前を歩いていたお姉さんが振り返っている。戸惑いと、疑問。お姉さんから発せられる匂いはそれだけ。悔しくなった。俺の腹の底に渦巻くものを彼女は知らない。
「あの、」
その言葉が出てくるのも、また自然なことだった。
「俺とも一緒に、食事しましょう。あなたが好きなものを、もっと知りたい」
――その意味は、大人の彼女はよく知っているはずだ。
「え、そ、それ」
「いけませんか」
「いけないことはない、けど」
「なら」
「いや、でも急にそんな」
「同僚さんとは行くんですよね」
「そうだけど、もう長い付き合いだし……ああ、こうなると竈門君は頑固なんだったそうだった」
言いながらも、彼女の新緑の匂いが強くなる。暖かい日差しを受けて、きらきらと葉が輝くような、そんな匂いに変わった。
最初から、だったんだ。彼女のこの匂いは、こんなにも俺の中に満ちていく。
俺は、一歩、また一歩と彼女に近づいた。
「もうお姉さんとは、呼びません。あなたが俺のことちゃんと意識してくれるまで、子ども扱いしないでくれるまで、はっきり言葉にもしませんから」
真っ直ぐに、彼女を見る。困ったように眉尻を下げて、視線をあちこち彷徨わせていた。慌てふためく様子は子どものように可愛らしかった。
「だから、俺のこと見ててください。男として」
その時、夜の匂いが途切れたのを、俺は確かに感じ取ったのだ。