いつもわたしのまわりには、人の目と閃光があった。
人の目たちはわたしに、「もっと元気よく」とか、「もっと色っぽく」とか言いながらたくさんの閃光を浴びせた。そうして映し出されたわたしの姿は、また誰とも知らない人の目たちに晒されて、短時間で消費されていく。
それがわたしという存在に許された全てだった。
「歌をうたっていたんだね」
今まで気づかなかったよ、と言ったのは、少年のような青年のような、もしくはその中間みたいな声だった。初めて聞く声。外界にはまだわたしの知らない人がいたのかと不思議な気持ちになり、歌をやめてそちらを向いた。すると男の子がぎょっとしたのがわかった。
「あ、ご、ごめん」
「いいのよ。気にしないで」
「でも」
「この姿、気に入ってるから」
そう言うと、男の子は少し安心したような空気をまとって、わたしの隣に座った。
わたしの『今の』見た目がどうなっているかは知る手段がないけれど、カンオケ男によれば「寝起きに見れば一発で目が覚める」らしいので、きっとそういうことなんだろうと思う。
だけど、もう人の『目』を気にしなくて良いのは気楽だった。それと引き換えなら目が見えないくらいなんてことはない。わたしは歌がうたえるのならそれでいい。だから、今日も外界のはしっこで、汚れた水に足を浸けながらうたうのだ。
「歌が好きなんだね」
男の子が言う。
「ええ。わたしがやりたかった本当のことだから」
「真実(ほんとう)?」
「そう。世界がこんなになって、こんな姿になって、わたしにとってはこれが真実(ほんとう)なの」
歌も。言葉も。真実(ほんとう)がかき消されてしまうならそんな世界のほうが歪んでいる。この姿になれた今ではそう考えている。
「ところで、あなたはどこから来たの?」
そう尋ねると、
「どこから来たんだろうね」
と、答えた。
その声には『なにもなかった』。悲しみも、寂しさも、なにもない。感情がまるで無色透明な水のようだった。
「じゃあ、どこに行くの?」
自然に声が震えた。どれだけうたっても枯れたことがないわたしの喉が、からからに乾いている。初めての感覚だった。彼と話したことで、わたしのなかに新しいなにかが生まれようとしているのが分かった。それは身が凍るような恐ろしいもののようでも、飛び跳ねたくなるほど嬉しいもののようでもあった。相反する二つが混ざりあって、溶け合って、別のなにかを形作ってわたしのなかを駆け巡っている。
ややあって、彼がわずかに動いた。
「神経塔」
きっと、その場所を指差しているんだと思った。
神経塔。全ての元凶であり全ての始まり。多くの異形が徘徊し、時折悲鳴のような声が聞こえてくる悍ましい場所。そんなふうに聞き及んでいる塔に、彼は向かうのだと言う。
「何をしに?」
「生きるために」
そのとき。
彼の言葉がわずかに色づいたのに気づいた。
「僕はそろそろ行かなきゃ」
立ち上がったのか、じゃりと砂を踏む音がして気配がわずかに遠くなる。わたしはなにか言おうとして、あるのかもわからない唇を開きかけたが、掠れた喉からは小さな息しか出なかった。
「歌、上手だったよ」
それだけ言い残すと、徐々に彼の足音は遠ざかっていった。
歌が。
歌がうたえればそれだけでよかった。わたしのためにわたしの喉を鳴らして、誰に言われるでもなく好きなように動いて、うたっている間いつでも心は自由だった。それがわたしの真実(ほんとう)だった。それ以上欲しいものなんてあるはずがなかった。
それなのに。
「歌、上手だったよ」
嬉しいと、思ってしまった。
初めてだった。歌を聞いてもらうのが。言葉をかけてもらえるのが。『わたし』をそんなふうに見てくれるのが。こんな気持ちになるのは、生まれてから初めてのことだった。
もう一度聞いてもらいたい。
今度は、彼のことをうたったものを。
それからわたしは沢山うたった。今までうたったことのないような歌も、昔からずっとうたい続けてきた歌も、わたしのなかのあらゆる音をかきあつめてうたい続けた。
それでも彼を表すことが、どうしてもできなかった。
「歌、上手だったよ」
言葉だけがわたしのなかで響いている。残響のようだった。繰り返し、繰り返し、わたしの内側をひどく揺らし続けているのに、その揺らぎをいつまでも捕まえることができない。
焦燥。わたしのなかには、彼の残響に応えられるものがないというのだろうか。そんなはずはない、だってわたしは、うたっている間は自由で、なんでもできて、どこにだって行けるのに、わたしは、
「暗闇女は言っていた。なぜ、歌をうたっているのだろうと」
彼女が暗闇女と呼ばれているのを初めて知った。でも、その名で呼ぼうとは思わなかった。
歌が好きで、うたうのがとても上手な子。外界では何度も目覚めているのに今まで気づかなかった。あのとき、いつもなら通らない道を通ってみようと思わなければ、きっとずっと気づかないままだった。
ぼくは彼女のことがもっと知りたかった。
だから、どうしてそんなことを言うのか確かめたかった。あんなに嬉しそうに、楽しそうにうたっていたのに、彼女の真実(ほんとう)はどこにいってしまったのだろう。もしやぼくがいない間に何かあったのか、そう思うと自然に足がそちらに向いた。
彼女は、誰も気づかないような外界の端で、汚れた水に濡れるのも構わず、そこに腰掛けてずっと歌をうたっている、はずだった。
歌が、聞こえない。
「待っていたわ」
彼女が振り返った。
ぼくは、その言葉になにも返せない。分かってしまったのだ。彼女がどうしてうたえなくなってしまったのかを。
彼女もまた『埋まりつつある』。
「わたし、歌が……うまくうたえなくなってしまったの。あなたに会ったときから」
ぼくは、なにも言えなかった。
「初めはとても辛くて、焦ったわ。あなたに褒めてもらった歌、また聞いてもらいたいのにそれができないのが悲しかった。だけど、わたしの中のたくさんの音を拾っているうちに、ようやく気づいたの」
『ぼく』には返事をすることができない。
「わたしが歌をうたうのは、わたしのためじゃない。わたしの真実(ほんとう)を形にして、それを聴いてくれた人に返すためなんだって。だからね」
彼女は口許をゆるく綻ばせ、その音を柔らかく、美しく形にした。
「もう一度、『あなた』に会わせて欲しい」
ものが見えない彼女だからこそ、分かったのだろう。『ぼく』が『僕』でないことを。『僕』は『ぼく』になったことを。そして、彼女はここで終わらなければ真実を永遠に埋められないということを。
ぼくは止めていた足を動かして彼女に近づき、背負っていた剣を下ろした。両手に握って深く息を吸い、彼女に向き直る。彼女は少しも怯むことなく、嬉しそうにぼくのほうを向いている。きっと彼女の見えない視線の先に『僕』がいるのだろうと思うと、喉の奥からなにかが溢れるような気がした。けれどぼくにはそれを形にすることができないので、息を吐き、もう一度吸い込んだときに目を閉じて剣を振り下ろした。
彼女のきれいな水からは、絶えず美しい歌が流れ続けている。