柔らかい温度

 不思議な匂いがする。穢れた緑の香りでも、“鬼”が漏らす吐息でもない、今まで数度嗅いだことがあるかないかという珍しい匂いだ。好奇心が湧き、わたしは寝ぐらにしていた廃屋から外に出て、匂いのもとを辿ることにした。
 近づくにつれ、何やら餓鬼の喚き声という鬱陶しい音も聞こえてくると、わたしは無意識のうちに舌打ちをした。人間たちが安寂桜花街と呼ぶこの領域は、瘴気もやや薄いせいか大型“鬼”の数も少なく、群を嫌うわたしのような鵺にとってはうってつけの場所だった。だがこうも騒ぎ立てられてはおちおち昼寝も儘ならぬ。ま、異界に昼夜などないからこれはただの比喩だが。
 兎も角、安堵を得ていた住処を荒らされたような気分で一方的に腹が立ち始めた頃合、街の入り口付近に餓鬼が数匹群がっている場面に出くわした。

「お前たち、そこで何してる」

 思わず尋ねてしまったが、同時に餓鬼の知能を思い出して無駄を悟った。餓鬼はこちらを振り返ったが、ギイギイと鳴きながら飛び跳ね、薄ら寒い笑みを浮かべるばかり。その様子が鬱陶しかったので雷を一発落としてやると、驚いた餓鬼は細蟹を散らしたが如く逃げていった。ざまあみろと鼻を鳴らし、餓鬼が群がっていた場所に目をやった。そして、驚く。
 そこにあったのは、赤い体液塗れになった人の子。生きているのか死んでいるのか、一目では分からないほどの怪我を負っている。這いずった痕があることから“鬼”に運ばれた等ではなく、どこかから逃げてきたのだと分かる。
 “鬼”は、例外なく人の魂を食らう身。その時わたしも舌舐めずりをしながら近づいたのだが、突然、人の子がむくりと頭をもたげたのだ。

「あり、がとよ……」

 一瞬、何に対しての礼なのか分からなかった。だがその意味を理解する頃には、人はもう力をなくして再び地面に落ちてしまい、わたしは呆然と立ち尽くす。
 人に、礼を言われたのは、初めてだった。

 見た所、右脛にある何かが掠めた痕と背中の切り傷が最も酷そうだ。人の手当てなどしたことはないが、我々と同じく体液を流すことが消耗に繋がるのであればそれを止めるのが先決であろう。わたしは廃屋や遺物から得た布で傷口を縛ると、外へ出て瘴気の薄い地から薬になりそうな草を毟っていく。ついでに手のひら大の結界石の欠片も頂戴しておいた。薄いとはいえここも瘴気に満ちている。吸い続ければ確実に死ぬが、欠片でも結界石があればそれも耐えられよう。ただの“鬼”には持てぬ毒石だが、わたしほど力のある“鬼”ならこの程度の大きさはなんの問題もない。
 薬草と石を抱えて廃屋に戻ると、煎じた薬を傷に塗り、また別の薬を水に溶かし口に流し入れる。“鬼”に効く調合しか知らぬが、まあ、ないよりかはましだろう。
 体液は止まったが、熱があるらしく息が荒い。薬が効けばよいが、あとは己の体力次第といったところか。

「う、……」

 汗を拭いていると人が大きく唸り、驚くことに瞬きをした。わたしは慌てて人の姿に化けるが、急ぎ過ぎたためかやたら髪の長い童女という歪な姿となってしまう。そして更に気づく。態々化けずとも一度姿を見られているのだから意味がないということに。

「……お前、か。俺を助けたのは」

 人の子は、ありがとよと先程と同じ言葉を発した。どうやら外で倒れていたときの記憶はないらしい。それもそうか、あれだけ体液を流していれば意識も朦朧とするだろう。
 それよりも驚いたのは、此奴の回復力だ。傷は決して浅くはなかった、それなのに、喋れるようになるまでそう時間はかかっていない。少々手当てを施した程度で、だ。
 ただの人間ではない。
 ならば、我々“鬼”に仇為すあの存在か。
 わたしは気取られぬよう、片手の爪を静かに立てる。

「おい」

「……!」

 肩が跳ねた拍子に爪が引っ込む。人は、わたしに向かってこう言った。

「名前は」

 なまえ。人が人を識別するための個体名。“鬼”には不要のもの。故にわたしも名を持たぬ。

「俺は、焔、っつーんだ」

 だが、あるはずのないものを、どうしてかわたしも持ちたくなった。

「わたし、は……未登録名前、という」

 適当に浮かんだ言葉を告げると、焔は何度か瞬きをし、

「……なんだ、ちゃんと、喋れんじゃねえか」

 焔は喉を震わせて笑い、そしてまた目を閉じる。わたしは肩から力が抜けて、ほうと息を吐いた。
 なんだ、これは。まるで人と人のやり取りではないか。わたしは“鬼”だ。人は、魂は食うために存在するのだ。それがなぜ、手当てなどして命を救った。そうだ、無我夢中で気付かなった。わたしはこの魂を食わなかった。憎きモノノフの魂を。
 わたしは、人に手を伸ばし、

「……」

 そのまま、額に乗せた。
 焔は僅かに身じろぎしたのち、静かに寝息を立てだした。
 焔。胸中で呼ぶ度に、体の何処かがこそばゆくなる気がする。名前を呼ぶという行為は、落ち着かなくて、むず痒くて、……柔らかい、と思った。

 それから暫く――人の時間に換算すれば二日といったところか――焔は完全に目を覚ました。立って歩くにはまだ遠いが、体を起こし喋れる程度にはなったらしい。尋常ならざる回復力はやはりモノノフのそれか、よくよく気を付けてみれば、腰に下げた武器から僅かばかり同族の気配がする。なればこやつはモノノフで間違いなかろう。妙なのは、焔が一度も「仲間」だの「住んでいる場所」など、口にしないことだった。

「悪ぃな未登録名前、やらせてばっかで」

 薬湯と食料になりそうなものを渡すと、焔はそう言った。

「いい。大した手間じゃ、ない」

 名を呼ばれるたびにムズムズとした心地を覚えながら、人の子らしい返事を考える。そも普段から喋ることなど殆どないから、わたしの言葉は少しばかりたどたどしい。だが焔は決して急かすことはなく、わたしが言葉を紡ぎ終えるまで待つのだ。

「なあ」

「な、なんだ」

 焔はじっとわたしの目を見ている。

「お前、ずっとここに住んでるのか?」

 わたしはその目を見ていられず、やや俯きがちになった。

「……ずっとじゃ、ない。色んな場所を、転々している。わたしには、住むところなどないから」

 嘘をつくのは、なんだか苦しい。だけど、正しいことも出てこなかった。結果わたしの言葉は曖昧を辿り、どちらともつかない台詞となった。
 焔は暫し黙っていたが、やがて息を漏らした。

「俺と同じ、だな」

 顔を上げると、焔の目がすっと細められた。口角を薄く持ち上げ、覗き込むわたしと視線が合っている。否、もしかしたら全く別のものを見ているのかもしれぬ。焔の目は、見えない色をしていた。

「焔も、ずっとひとりなのか」

「ああ」

「そう、か」

 人は、弱い故に集まるのだと聞く。互いが互いを助け合うからこそ、“鬼”に襲われても種が絶えることがない。それはモノノフとて同じだ。
 その弱い人がひとりでいる。その意味は、わたしでさえ容易に想像できる。

「んな顔、すんなって」

 ぽふ、と、焔はわたしの頭に手を置いた。

「もう慣れっこだ。今更どうこう思わねえよ」

「わ、わたしはなにも」

「それより、未登録名前こそどうなんだよ。お前みたいなちっこいの一人、“鬼”に会ったら一飲みだぜ?」

「ちっこい言うな!わたしだってそれはもう修羅場を潜ってきてるんだ、“鬼”など怖くはない」

「はは、言うじゃねえかちっこいの」

「だから――」

 遮るように焔の手が私の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。

「同じだなぁ。俺たち」

 それだけ言うと、焔は疲れたと横になった。
 この日これ以上言葉を交わすことはなかったが、わたしのなかでモノノフの――人の、意識が変わったのは確かだったように思う。

 

 人は、我々にとって単なる食糧だった。それ以上でも以下でもなく、憎しみだの怒りだのといった感情も湧いたことなどない。“鬼”にとって人は脅威になり得ないからだ。モノノフでもない者は餓鬼にさえ怯えるというし、そのモノノフもたかだか深淵に数人がかり。そんな弱い人の子が集まったところで、獲物が騒いでいる、程度の意識しか持っていなかった。
 今までは。
 わたしは知らなかった。人の肌の柔らかさを。繰る言葉がくすぐったくて、胸中が軽くなること。
 何より、名を呼び、呼ばれることが、こんなにも、

 ダァン!

 ハッとしたわたしは慌てて身を隠した。
 安寂桜花街より少し離れた桜の並木道の入り口で、薬草を採取していたところに放たれたのは銃声だった。にわかに瘴気が濃くなり、重い足音と振動が伝わる。やがて音の主がわたしのすぐ側を走り抜けた。
 だが、再び聞こえた銃声と白刃によって遮られる。もんどりうって倒れたのはこの辺りを根城にしている怨樹坊だった。怨樹坊はすでに事切れ、立ち上る瘴気に二人の男が駆け寄る。装備からして先程攻撃を仕掛けたモノノフに違いない。
 これは好機だ。モノノフなら、きっと焔を預かってくれるはず。結界石を持たせているとはいえ少しずつ瘴気を吸い続けている。焔は人間だ、異界で休ませるより人里にいたほうが良いに決まっている。
 人間。
 そうだ、焔と私は世界が違う。そんなこと、分かりきったことではないか。なのに何故、この言葉が頭に思い浮かんだときに胸が詰まるような感覚を。
 ……いや、今はそんなことを考えている場合ではない。わたしは見つかるわけにはいかないが、焔にはモノノフたちのことを教えなければ。
 わたしは薬草の入った籠を抱え、一目散に駆け出した。

「焔!」

 家屋に戻ると焔は寝ていたようだが、わたしのただならぬ声に体を起こした。

「未登録名前、どうした」

「聞いてくれ、モノノフが来てるんだ!すぐそこ、桜の並木あたりに」

「モノノフ……?どんな奴らだった」

「白い着物を着ていて、刀と銃を持っていた。間違いなくモノノフだぞ。だからきっと焔を助けてくれる。人里に帰れるんだ」

 興奮したわたしは焔に駆け寄るが、焔はなぜか眉間に皺を寄せた。

「それは出来ねぇ」

 え、とも、声は出なかった。

「俺は、モノノフから追われてるんだ。まぁ色々あってな……そいつら、多分俺を探しに来た連中だぜ」

 焔の傷を思い出す。背中の切り傷、足の擦った痕。先のモノノフが所持していた武器。あれは、あの傷は。

「人間同士が、馬鹿げてると思うだろ?だが事実だ。モノノフってのは、そういう奴らなんだよ。俺のことはいい、お前だけでも逃げろ」

 そう言って笑いながら、焔は私の頭をくしゃりと撫でた。
 そんなこと、できるわけがない。焔を置いて一人で行くなんて、そんなことをしたら、焔は本当にひとりになってしまうではないか。

「!!」

 はっと顔を上げる。人間の匂いと足音。間違いなくこちらに向かっている。まさか姿を見られた?異界で人の姿など見ようものなら、心配されるか怪しまれて追われるに決まっている。
 しくじった。

「……未登録名前?」

 すくと立ち上がったわたしを、焔は訝しげに見上げた。

「すまない。わたしは嘘をついた」

「何を、」

「すぐそこまでモノノフが来ている。わたしが時間を稼ぐから、その隙に焔はここを離れるんだ。立てるな?走れはしないだろうが、お前なら見つからずに逃げることもできよう。……さらばだ」

「未登録名前!」

 声を振り切りわたしは走った。家屋を出て、姿を変化させながら音と匂いに向かってひた走ると、やがて桜花街から少し下った場所に出た。
 モノノフは餓鬼を相手取っておりわたしには気付いていない。不意をつき、背中から刀使いに飛びかかった。刀使いはすんでで気づいて横に飛び、振り向きざまに抜いた刀がわたしの毛を一房切る。その間に銃使いの弾が放たれ、わたしは地面を転がって避けた。間合いを取ったところで毛を逆立てて落雷を放ち、刀使いがたたらを踏んだところで銃使いに肉薄、すれ違いざま爪で大きく引き裂いた。引き裂いたのは脇腹、無力化には十分。呻いて倒れた所を確認すると、振り返って迫っていた刀をぎりぎりで避け、雷を浴びせかける。が、同じ手には乗らずか刀使いは地面に膝をつき電撃を避けると、手首を返して横に薙ぐ。胴に一筋の切り傷が生まれる。決して浅くはない傷によろめくが、わたしは四つの足をしかと立たせ刀使いを見据える。
 痛みに、揺らいでいる暇はない。焔は満足に動けないのだ、わたしが時間を稼がねば。もう、人であるとか“鬼”であるとかは、関係ない。
 わたしが――未登録名前が、焔を、助けてやりたいのだ!
 牙を剥き出し、わたしは走った。刀使いも迎え撃たんと腰を落とす。瞬間、小さな雷を周囲に撒き散らした。刀使いは閃光に怯み、動きを止める。見逃さぬ。わたしは爪を突き出し頭から振りか

ダンッ

 起き上がっていた銃使いが、片腕で、わたしの腹を、撃ち抜いたらしい。全身から力が抜けていく。地面に倒れ、腹からどくどくと、体液が、流れ出すのを感じる。
 立ち上がらねば。立たねば、焔が見つかってしまう。足が、なぜ動かぬ。牙も、爪も、なぜ出せぬ。モノノフがわたしに、近づいてくるではないか。一歩、一歩、白刃が、わたしの頭上に向かうというのに、この体は、なぜ、なぜ動いてくれぬのだ。
 はやくしなければ焔が。
 その時。白刃を、何かが絡め取ってモノノフごと引き倒した。

「テメェら……!」

 動かぬまま目を見開いた。姿を、確認するまでもない。
 焔は刃のついた長い鞭を操り、立ち上がっていた刀使いの足を取る。転がる刀使いの背後で、弾込めを行なっていた銃使いに向けて刃物を投げた。刃物は胸と肩に深々と突き刺さり、銃使いは呻き声を上げながらうつ伏せる。

「早いとこ戻った方がいいぜ、苦無にゃ毒が塗ってある」

 苦しそうに呻く銃使いに刀使いはさっと青ざめ、わたしと焔を交互に見た後、刀を収めて銃使いを肩に立ち去っていった。
 後ろ姿が見えなくなると、焔は「ま、あの苦無に塗ってあるとは言ってねえけど」と独りごち、それからわたしを見つめた。

「未登録名前」

 息が詰まった。
 焔は、“鬼”の姿をして尚わたしが未登録名前であると知っている。
 いつから?どうして?どこで気づいた?
 声を出そうにも、喉の奥から溢れる体液によって遮られて咳き込んだ。

「大丈夫か!」

 焔も完治してないであろうに、さっとわたしの身体を優しく抱き上げる。ああ、なんと柔らかい腕か。爪で引き裂けばあんなに柔いのに、今わたしを支える腕は、こんなにも頼もしくて。

「ほ、むら」

 わたしは力を振り絞り、姿を童女のものに変えた。恐らくは、これが最期になるだろうから。

「馬鹿、無理して化け――」

「すまない。嘘を、ついて」

「そんなことはいい!もう喋んな!」

「短い間、だったが、お前と話せて、わたしは嬉しかった。人にも、お前のような、やつが、いる、のだなぁ」

「何言ってやがんだ!それより早く、……くそ、“鬼”はどうすりゃ治る、」

 焦る焔の腕の中で、徐々に視界が薄れていく。白い靄がかかり、まるで光に呑まれたかのようだ。今まで日陰に存在していた“鬼”が、間際にしてこのような光景をみるとは、笑えたものだ。
 やがて、わたしを構成する魂がぬけていき、周囲に浮かびあがるのを見た焔がいきをのむ。

「ばかだなぁ、“鬼”にそんな顔、して」

「……見えてねえんだろ」

「見えなくても、わかるさ。“鬼”なんかのために、泣いてくれる、心優しい、焔」

 わたしはなんとか手を動かして、かろうじて映る視界をたよりに、焔の?にふれた。やっぱりそこは濡れていて、ふれている間にもまたひと筋ながれたようでわたしの指さきをつたい落ちた。
 ああ人であれば、温度というやつがわかれば、このおもいを、きっといくらでもことばにすることができたのに。くやしいな、やっぱりわたしはひとになれない。
 だから、せめて、いまこのときばかりは、まねさせておくれ。

「なあ、ほむら」

 よぶと、びくりとふるえた。

「わたしの、おんどは、ちゃんと、……やわらかかった、だろうか」

 ほむらは、ぎゅうとわたしのてを、にぎった。たぶん、わたしのいいたいことがわかるのだ。
 そのしゅんかんに、わたしのいしきは、ちりぢりになった。けれどたしかにきいたのだ。

 ああ、と。

(“鬼”は嫌いだ。“鬼”なんかいなけりゃ、“鬼”じゃなければ、きっと――)