虚空に手を伸ばし、強く握り込むと目の前の巨木は紙クズのようにひしゃげて折れた。舞い上がる土煙と火の粉の中、俺は真っ直ぐ標的に向かって歩き出す。
一瞬、土煙が揺らいだ。
俺は胸のファントムルビーに触れ、走り寄る標的の空間を歪める。相手は足を縺れさせ、転がるように地面に倒れた。俺はそいつの首を片手で掴み上げ、仮面の奥で密かに嗤う。
「言い遺すことはあるか?」
もがくレジスタンスの首をほんの少し緩めてやると、ヘルメットがずれ落ち顔が露わになる。ネコの女だった。
「……」
女は、何も言わなかった。そのかわり口角を薄く持ち上げ、瞳を弦月のように細めて笑ってみせた。戦場にはおよそ似つかわしくない、まるで慈雨の如き微笑みだ。
気に入らない。気に入らない。何がお前をそうさせる。そんな笑顔を向けて何がしたいというのだ。お前には何も残されてはいまい。この街を染め抜いた恐怖でさえも、全て俺が奪い取った!
爪を立て、そいつの首を握り潰した。
額から滑り落ちる汗の感触で目を覚ます。そこには咽ぶ土煙も鉄錆の匂いもない。あるのは洞穴特有の湿った空気と、薄汚れた仮面が横たわるだけだった。
あいつらに負けて以降、行き場をなくした俺は逃げるように各地を転々とした。皮肉にも仮面を付けていない俺を『俺』と認識できる者はおらず、正体が露見することなく陽の下を歩けた。
だが、こうして時々、夢をみる。
同じあの日を繰り返し、繰り返し、映像記録を巻き返すように寸分違わず記憶をなぞる。
あの時の女が俺をせせら嗤っている。
ずっと、夜よりも暗い底から嗤い声がする。女につられ、今まで積み上げた屍共も声を重ねた。木霊のように響き渡る。どれだけ耳を塞いでも、自分の声で掻き消そうとも、こびりついたように離れない。
――おまえは弱いんだよ
――じぶんの弱さを認められなかった
――特別になりたい?いいやおまえはただの犬だよ
――その目はなんだ、かたほうだけ色が違って
――しょせんはただの、出来損ないさ
「っああああ!」
洞穴の奥に向かって石を投げ、俺は仮面を掴んで外に飛び出す。走ったところで行き場なんてない。そんなことは分かっている。それでも足は止まらない。俺自身、どこへ向かっているのかも分からない。俺には何も残されていない。
『俺』を知る者など、もう何処にもいないというのに。
「――ここ、は」
森を抜けると小高い丘に出た。そこから臨む景色は、よく見知ったものだった。
一度はエッグマン軍の手により灰が降り注いだ街。それが今、崩れた建物の周囲には足場が組まれ、瓦礫は着々と運搬されていき、何より道には人が行き交っている。
ここには、何も残っていない。破壊し尽くし、恐怖で染めた。そう思っていた。思っていた?思っていたのは、誰だった?
目眩がした。思わず額に手をやり、側の折れた巨木の前で倒れるように膝を折る。
……折れた巨木?ここは、まさか。
目を見開き、視界に飛び込んできたものに息を呑む。折れた木の根元から真新しい芽が伸び、小さな蕾を蓄えていた。
その時、確かに視界に映った。
真っ直ぐ立った巨木が薄桃色の花を咲かせ、花弁が風に舞い、踊るように青空のもとへ消えていくのを。
持っていた仮面を地面に置いた。それから両手で、穴を掘る。
ここにあるのは『俺』の死体。あの日の荷物は、俺にはもう必要ない。
「じゃあな、インフィニット」
汚れた手袋脱ぎ捨て、俺は街に背を向け歩き出す。脳裏には、吹雪くように舞う花弁で満たされていた。