桜の八日

 主の行き先は分かっていた。確証があったわけではないが、彼女が行くとしたらそこしか考えられない。まるで何かに導かれるように、おれの足は止まらず走り続ける。幾度も辿った道。ある時は気晴らしだと、またある時は皆と祭りだと。主とともに紡いだ思い出が、まるで走馬灯のように駆け巡る。どれも失いたくはない、かけがえのない時間を。

 やがて、その姿を見つけ出す。彼女は千年桜に縋り付くようにして泣いていた。

「主」

 肩で息をしながら呼びかけると、主は背中を震わせた。顔は、上げなかった。

「主、皆のところへ帰ろう」

 沈黙。その代わりに、小さな嗚咽が聞こえた。また涙が溢れているのかもしれない。おれには見せたくないのかもしれない。いつかの、蜂須賀に手を握られていた主の姿を思い出し、ぎゅっと奥歯を噛んだ。
 だが、おれはもう迷わない。
 あの時踏み出せなかった一歩を、今、踏み出した。

「やめてよ」

 涙声に、怯みかける。しかし歩を進めることはやめない。

「やめて、お願い……」

 おれの歩みは、ついに腕を伸ばせば届く距離になる。

「主」

 懇願するように言うと、主はゆっくりと顔を上げた。頬は涙で濡れて、目元が痛ましいほど腫れている。

「やめて、主って呼ばないで」

「……主」

「やめて、やめてよ……! 私は、もう主じゃないの! 結びがほどけたの……私のせい、で」

 主の瞳から、また涙が溢れ出す。

「私が、私が余計なこと考えたから。みんなの主になりたいなんて、思ったりしたから……私が、」

 その涙を拭うことすらせず主は叫んだ。

「私なんかが、長曽祢さんを好きになっちゃったから……!」

 心臓が。
 どくんと高鳴った。

 雪見障子越しに見た涙。浴衣姿で恥じらいながら浮かべた笑顔。仕事に取り組む真剣な表情や、短刀たちと声を上げてはしゃいだあの日々。

 雨の中、ふたりで見上げた千年桜。

 ――ああ、そう云うことだったのか。

「………ちょっと」

 声を押し殺して笑っていると、主が困惑したように呼びかけた。

「いや、すまん……はは、」

 まるで、あの蕎麦屋の繰り返しだ。そのやり取りに懐かしさを覚え、おれはまた笑みを漏らす。
 あの時から、――いや、きっと最初から。おれの心は、ずっと決まっていた。

「主。聞いてくれ」

 彼女の涙は、もう止まっている。

「おれは、あんたを心から愛している」

 主は何度か目を瞬き、それから絞り出すように声を上げた。

「う、そ……」

「おれがこんな嘘をつくように見えるか?」

「見えないけど! 見えないけど……」

「なら」

「でも!! ……でも、長曽祢さん、先代さんと恋仲だったんじゃないの!? だからあの、蕎麦屋さんで……」

 それか。あんたを縛っていたものの正体は。

「先代が好いていたのは、蜂須賀だ」

 主が息を呑むのが伝わった。おれはひとつひとつ、言い聞かせるようにしてその先を紡ぐ。

「おれが顕現して暫くしてからだ。先代の蜂須賀を見る目が、おれたちに向ける目と違うことに気付いた。誰も気付いていなかったようだが、虎徹の名の縁だろうな……だが、蜂須賀は主従以外の特別な感情を持てなかった。主もそれを察していて、だから気持ちを押し込めていた。先代と本丸の綻びは、そこから生まれたものだろう」

 恐らくは、先代の届かない想いこそが本丸との結びを弱めた最たる理由だ。それを無理に押し込めたばかりに、彼女の体調と相まって遂には生命に関わることになってしまった。
 いち早く気づいたおれができることといえば、蜂須賀と近侍を交代し、先代の行き場のない心を休ませることだった。時には怒りを、時には悲しみをぶつけられる相手がいれば、いつか先代も心を落ち着ける日が来ると、そう信じて。
 だが、それだけではどうしようもないところまで来てしまった。それがこの引き継ぎ本丸の行方だった。

「それでも嘘だと思うなら、蜂須賀に尋ねるといい。先代はここを去る前、蜂須賀に想いを打ち明けていった。……蜂須賀には、ずいぶんと重いものを背負わせてしまったが」

 それでも。蜂須賀に心を打ち明けた先代は、涙こそ流していたが晴れやかな笑顔を見せていた。言えて良かったと、結ばれこそしなかったけれど好きになって良かったと。機会を設けたおれに頭を下げてから「ありがとう」と笑ったのだ。
 蜂須賀もまた同じだ。先代の心をそれとなく感じ取っていたものの、今まで何も出来ずにいたことを後悔していた。故に、言葉と言葉を交わしてお互いの心に決着を付けられたことを安堵していた。
 揺れ動く二つの心は、別離という形を得てようやく定まることが出来たのだ。

「だからおれは、もう一度言う。……主、皆のところへ帰ろう」

 あの時もこの桜の下だった。泣いて笑う先代の顔を見て、言葉を尽くすことがどれほどの意味を持つのかを知った。
 ならば今。おれは、おれが出来ることをするのみだ。

「だけど……だけど、本丸と私の結びはほどけたんだよ! 戻ったところで私じゃ何も出来ない! 浦島くんだって……!」

「浦島のことはなんとかなる。こんのすけにも手配してもらった。時間はかかるだろうが、折れはしない」

「けど……私は、私じゃみんなのほんとうには……」

「はは、贋作のおれにそれを言われるとなあ」

「あ、ご、ごめ――」

「いや」

 おれは、主の前に右手を差し出した。あの蕎麦屋で、初めて会った時のように。
 もし。
 主と本丸の綻びが『届かない想い』にあるのだとしたら。
 本当に賭けるべきは、きっと。

「主」

 もう一度、呼びかける。
 強く、深く、真っ直ぐに見据えながら、おれは彼女に向けてその言葉を告げた。

「おれと結ばれてくれ」

 彼女の瞳が大きく見開かれる。ためらうように視線を彷徨わせながらそっと右手を上げ、一度ぎゅっと胸の前で握り込む。
 永遠にも似た静寂。その後に、彼女の柔らかいあの手が、おれのものと重なった。

 ――強い風が吹く。

 肩をすくめて目を細めたが、視界の端に映った影に違和感を覚えてすぐに顔を上げる。

「桜が……!」

 咲くはずのない季節。枯れ果てた樹木。
 だが、今おれたちの目の前は、薄桃色の景色に覆われていた。

 満開の桜の花弁が、嵐のように舞っていたのだ。

「ああ、やはり――」

 握ったままの手に力を込める。彼女は少しだけ驚いたようにおれを見た。

「また、咲いたな」

 ぽろ、と主の瞳から一筋の涙が流れる。それはもう哀しい意味を持つものでない。
 おれたちは今、本物の縁を結ぶことが出来たのだ。

「――あ! 兼さん、あっち!」

 遠くから国広と、和泉守の声がする。忙しない足音とともに、和泉守が大きく声を張った。

「主! 長曽祢さん! 浦島の傷が――!!」

桜の八日

「――むすひ?」

 聞き慣れない言葉に首を傾げると、三日月さんはああと言った。

「漢字にすると、子を産むの産むに霊力の霊。それで産霊だ」

「産霊……」

 三日月さんはお茶をひとすすりして、私に向き直る。

「神道における概念だな。万物を結び、繁栄させる力のことを言う。結びという言葉は元々、産霊と書いたのだとも言われているそうだ」

「それが……私達の身に起きたこと?」

「憶測だが、俺はそう考えている」

 あの日。長曽祢さんの手を取った瞬間、信じられないくらい強い霊力が体に湧き上がった。強いけれど穏やかで、まるで春の陽だまりのような霊力。それが、私と長曽祢さんが『結ばれた』ことで『産霊が成った』と三日月さんは言う。
 持ち直した浦島くんを手入れ部屋に運ぶと、時間はかかったが完治に至った。泣きながら喜んで抱きしめ合うのも束の間、ほどけたはずの本丸との結びが再び結ばれたことで政府も異例の事態だと緊急会議ものの騒動となり、事情聴取やら数多の検査や診断やら、更に年末ということも重なって、諸々の手続きが終わる頃には外がすっかり冬景色になっていた。その数多の診断を経てなお政府の見解は『要経過観察』にしかならなかったので、ただの徒労感も否めない。
 それでも。本丸の運営は、私が引き継いだ時よりもずっと順調だ。資材が余計にかかることもないし、鍛刀や手入れの時間も規定通りに終わるようになった。引き継ぎ当初はあれほど苦労していたのにと思うと、不思議な感覚がする。

「なんか……まだ実感がもてないや」

 自分の両手を握ったり開いたりしてみるが、特別どこかが変わった気がしない。あの政府でさえ分からなかったのだから、『産霊』とはよほど稀有な現象なのだろう。そんなにすごい出来事が自分の身に起こったとは、どうしても思えなかった。

「実感しようとして出来るものではないからな。それにまぁ、無理に感ずる必要もないだろう。主は本丸と――いや、長曽祢虎徹と、魂の最も深いところで結ばれたことに変わりない」

「……そういう言い方されると、恥ずかしいなぁ」

「うむ。そう聞こえるように言っているからな」

「ちょっと!」

「ははは、愉快愉快」

 人を弄びやがってこのじじい……と心の中で悪態をついていると、ふっと三日月さんが柔らかく微笑んだ。

「やはり、お主が最後に選び取るのは『最良』であったな」

 瞳の中の三日月が、きらりと輝いた気がした。

「うん」

 その輝きに応えるよう、私も大きく頷く。以前と違ってそこに迷いは浮かばなかった。
 私ひとりだったら、ここには辿り着いていない。沢山の人と刀たち、それぞれの思いが私をここまで導いてくれた。その思いに、今度こそ報いたい。そのために私は胸を張っていよう。
 みんなの主であるために。

「おっと、もうこんな時間であったか。いや呼び止めてすまない」

「ううん。私も気になってたこと聞けて良かった。また相談させてね」

「ああ、もちろん。久々の休みだ、水入らずでゆっくりしてこい」

「またそういうこと言う!」

「はっはっは。ではな」

 もう、と言いながらも自身が笑顔になっているのが分かる。三日月さんの私室を後にして、はやる気持ちで小走りになりながらその先へと向かった。幾度も歩いた道のり。ふたりで、時には大勢で。積み重ねてきた思い出たちを胸に、私はそこへと辿り着いた。

「長曽祢さん」

 横顔に声をかけると、彼はゆっくりこちらを向く。あの軽装に白い冬用の羽織を掛けた姿は、ちょっとだけ心が浮ついた。

「すまない、探したか?」

「ううん。ここにいる、って分かってたから」

「そうか」

 もう一度、長曽祢さんは先程まで見つめていた箇所に視線をやる。そこにあったのは、大きな大きな切り株。千年桜だったもの、だった。
 私達に産霊が成った日の夜、みんなが寝静まった後だと思う。千年桜は、自ら折れたのだ。音も衝撃もなく、ひっそりと体を横たえていたのを、朝起きたみんなが見て言葉を失っていたのは記憶に新しい。
 役目を終えたのだろう、と言ったのは三日月さんだった。私と長曽祢さんの行く末を、ずっと見守ってくれていたのだろうか。そうと思うと、なんだか少し寂しくなる。

「主」

「なに?」

「あんたが新しい主で、良かった」

 それは就任初日の夜に長曽祢さんがくれた言葉。あの時は、恥ずかしくて何も返せなかったけれど。今なら胸を張って、こう言える。

「私も、ここの主に成れて良かった」

 そうして私は右手を差し出した。長曽祢さんは少しだけ驚いた顔をしていたけど、すぐにあの金色の瞳を柔らかく細めて手を繋いでくれた。

「ひさびさだね、あそこ行くの」

「そうだな。色々あって……まぁ、気まずかったしな」

「あはは、だよね……でも、それだけじゃないよね」

「おれたちを繋いでくれたもう一つの場所、でもあるな」

「うん」

「さて、おれはもう決まっているが、あんたは?」

「そりゃ、もちろん」

 私は雲一つない冬晴れの空に、高く高く声を上げた。

「とろろ蕎麦に、海老天追加で!」