カツン、カツン
なにか、硬いものがぶつかる音がする。小さく、不規則ながらも断続的に聞こえてくる。
ぼんやりする頭でゆっくりまぶたを持ち上げて、飛び込んできた光景に目を見開いた。
異様な部屋だった。まるで刑務所の中のように狭く、薄暗い。明かりといえば真ん中にある鉄製のテーブルに電気スタンドが一つ置かれているだけで、心許ない光は部屋をさらに不気味ものにしていた。
私はその前に置かれたイスに座っている。ただし、後ろ手に手錠で固定されている。引っ張っても、ガチャガチャと音を立てるだけで外れる気配はない。
一体ここは、
「気がついた?」
肩が跳ねる。
暗がりから、ぬうと白い顔が現れた。いや、それは最初から私の前に座っていたのだろう。ムンクの叫びを思い出させる白いマスクと、黒づくめのコートを羽織った男が私の前に座っている。異常な風体。直感で悟った。こいつが私をここに、と。
男は私に向けていた電気スタンドを、お互いの手元が見えるように位置を変える。テーブルの上にはいくつかのガラス玉が散らばっていて、さっきの音はこれがぶつかっていたのだと気づいた。
「急に呼び出して、悪いね」
まるで待ち合わせた友人にするような声で男が言う。もちろん私にこんな悪趣味な知り合いはいない。
男の意図が分からない。なぜ私をこんなところに連れてきたのか、なぜ縛られているのか、そんな仕打ちをしておきながら、なぜ親しげに話しかけてくるのか。
「君は、どうしてと思っているだろうね」
息を呑む。
カツン、カツンとガラス玉が弾かれる。
「君が気付かなかっただけかもしれないよ。もしかしたら、どこかに兆候があったのかも。覚えはない?誰かに恨まれたりだとか」
そんなはず、と開きかけた唇は、身を乗り出してきた男の人差し指で塞がれる。弾みでテーブルの上に散っていたガラス玉がバラバラと転がり落ちた。
「言っただろう?気付かなかっただけかもしれない。よく思い出してごらん?誰かにぶつかりそうになったことは?おろおろ困っている人を見て見ぬふりしたことは?嘘をついたり、約束を破ったりしたことは?」
声は低く、静かで、落ち着いていた。まるで隙間に入り込んでくるかのよう。私の中の柔らかいところを突いて、ひどく掻き回してくる。
男は、どこまでも冷静に問い続ける。
「無知は罪、とはよく言ったものだよ。知ろうとしなければ、傷つけたことも分からない。可哀想に、君は自分の罪に殺されるんだ」
思い出せない。私はこの男とどこかで関わったことがあるのだろうか。男は、それこそが私の罪なのだと言う。私は罪によって殺されるのだと。
奥歯が鳴った。震えているのが自分でも分かる。ぼろぼろと涙が溢れるのに私は男から目をそらせない。
どうれば私は、赦してもらえるのだろう。どうすれば、私は、
「ごめんね、泣かせたいわけじゃない」
不意に、唇に当てられたままだった男の指が滑り出した。唇を優しくなぞり、一度離れ、包み込むように頬を撫でて涙をすくう。
「今すぐっていう話じゃないから。まずは落ち着いて」
ね?と男が言う。その優しい声音を聞き、少しずつ平静が戻ってくるのを感じた。不思議なことで、男の言葉には力強い説得力があるように思えた。
きっと、彼の言うことを聞いていれば私はもう間違うことはないのだ。
「ふふ、良い子だ」
泣き止んだ私を見て、彼がよしよしと頭を撫でる。褒められて気分が良くなった私は、目を閉じてその感触を深く味わった。
不意にその感触がなくなったかと思うと、次にやってきたのは柔らかい唇だった。まぶたに、頬に、そして唇に。甘く吸われて、舌で触れられ、頭がびりびりと痺れだす。もう何も、彼が与えてくれるもの以外の感覚が、私の中から抜け落ちてしまうような。
がり。
にわかに血の味が広がった。驚いた私は机ごと男を蹴飛ばす。けたたましい音とともに机が倒れ、ガラス玉と電気スタンドが床に広がった。
その時私はようやく知ったのだ。
窓のない壁一面に、私の写真が貼り付けられている。そのいずれもこちらを向いてるものがない。
「残念だったなぁ」
くつくつと、喉の奥で男が笑い、私の両頬を手のひらで包みこむ。
「俺に好かれたお前が悪い」
獣が唸るような声で、今度こそ私は彼から逃げる術を失った。