石蕗の十一日

石蕗の十一日

 ついに、と言うべきか。
 ようやく、と言うべきか。

 私は端末が受信した一通のメールを前に、深々と溜め息をついた。
 このことは本丸を引き継ぐことになった時から再三言われていたことだし、日々を過ごしていても私の頭から離れることはなかった。だから、覚悟はとっくに出来ていると思っていたのに。

 もう一度、メールの文章に目をやる。その件名には『引き継ぎ本丸視察調査のお知らせ』と書かれていた。

 政府所属の職員による、引き継ぎ本丸への立ち入り視察。これは本丸の引き継ぎ制度が確立したときに制定されたもので、後任者が赴任して半年後に実施されることが予め決まっている。理由はもちろん、引き継ぎ本丸が正しく運営されているかどうかの調査だ。

「……主。そう緊張せずとも」

「するなって方が無理だよこれ……」

 私たちは引き継ぎ本丸の審神者と近侍として、本丸の大手門――出陣や遠征、現代への行き来に使うゲートの前で政府職員の来訪を待っていた。約束の時刻は午後二時。つまりあと五分ほど。
 調査に来る政府職員は、言うまでもないあの人だ。ただでさえ緊張する政府の立ち入り視察なのに、あの人が来るとなれば私の心境は穏やかでいられない。

「なに、主はいつものように構えていれば問題ない。本丸の運営は滞りないのだからな」

「そう、なんだけどね……」

「来たな」

 閉ざされた大手門の隙間から白い光が漏れ出でる。その光が強まるとともに門扉が開き、中から一人の女性が足を踏み出した。

「……お久しぶりです。おふた方」

 大手門が閉じられる。
 私は、戦の前のように生唾を飲んでいた。

 職員を応接室に案内し、対面に座る。私の左隣には長曽祢さんがいて、まるであの蕎麦屋の再現だ。自然と肩が強張り、正座した足の上で拳を握る。
 指摘される点は、幾つか予想できる。それに対する返答も用意してきたし、資料も不足なく纏められたと思う。それなのにここまで緊張してしまうのは、やはり彼女の第一印象と、『主』だったという事実だろうか。

「……お話の前に、少しだけ聞いていただきたいことがあります」

 びくっと肩が跳ねた。
 一体何を言われるのか――そう身構えていたのだが、政府職員は徐に頭を下げた。

「打ち合わせの時は、誠に申し訳ございませんでした」

「え……」

「長曽祢虎徹の言う通りでした。仕事の席で叱責するなど……あってはならぬことです。不快にさせてしまい、すみませんでした」

「え、や、それについては、メールでも電話でも謝ってもらいましたし、私も生返事で申し訳なくて」

「謝罪というものは直接会ってしなければ成立しないと思いましたので」

「いやいや考えすぎですって」

「ですが」

 不意に、隣の長曽祢さんがふっと息をついた。

「雨降って地固まる、だな」

 その言葉に、職員が顔を上げた。さっきまでの剣呑な雰囲気はどこへやら、少し照れたように頬を赤らめている。

「そうかも、しれませんね」

 そう言った職員は、花が綻ぶように笑っていた。この人は、こんなふうに笑う人だったのか。
 本当に真っ直ぐでひたむきな人なんだろう。だから責任感や使命感が強く、他人にも自分にも厳しくなるのか。
 彼女の人となりを改めて知ると、張っていた肩から徐々に力が抜けていった。

「改めまして、本日は宜しくお願いします」

「はい」

 互いに一礼したのち、ふと職員の視線が長曽祢さんに向いた。

「早速で申し訳ないのですが、近侍殿には席を外していただけないでしょうか。ここから三十分ほど審神者と政府職員の二者面談になりますゆえ」

「……大丈夫か?」

 長曽祢さんが心配そうに私を見ている。それに対し、私は笑顔で返した。

「私は大丈夫。三十分経ったらまた来て」

「主がそう言うなら……」

 渋々、といった具合だったが長曽祢さんは席を立ち、障子戸を締める間際に職員に向けて「主を頼む」と告げて去っていった。

「……変わりましたね、彼は」

 その様子を見て、職員は穏やかに口元を緩めている。

「そう、なんです?」

「ええ。既に知っての通り、私はここの主でした。ですが彼の態度は私が知るものよりずっと柔らかい。貴女のお陰ですね」

「いや、そんな……あっお茶も出さずにすみません、」

 なんとも言えないむず痒さを覚えて、取り繕うように急須に手を伸ばしかけ――

「故に、心苦しいのです」

 ピタリと手を止めた。

「それは、どういう……」

 職員の表情から穏やかさが消える。眉根を寄せて、本当に苦しそうに唇を引き結び、やがて重々しく開いた。

「率直に申し上げます。貴女とこの本丸の結びが、ほどけつつあります」

 時間が。
 止まったような気がした。

「貴女が政府に送付している日報を拝見していましたが、当初は引き継ぎ本丸故に霊力が馴染むまで時間がかかっているのだと思っていました。しかし、半年かかってもそれらは馴染むどころか――増える一方です」

 指先から温度が失われる。
 唇は震え、腹の底が重たくなった。

「指摘され続けている資材の件。もしや手入れや鍛刀の際に、資材が余計にかかっているのではないでしょうか」

 その答えは。

「……は、い」

 今まで気づかないふりをしていた。考えないようにしていた。研修のときより鍛刀も手入れも時間がかかる。資材が余計にかかる。それらは徐々に、わずかにだが増えていく。きっとこれは引き継ぎ本丸だからだと、自分がここに馴染むまでの辛抱なのだと言い聞かせて仕事に明け暮れた。
 けれど。
 政府は、そんな甘い考えを見逃してはくれなかった。

「これは、かつて私の身にも起きたことでした。本丸と審神者の結び付きが弱まるとこのような事が起こるようです」

「結び、を……もう一度、結ぶ方法は……た、例えばその、噂とかで聞くような、男士と」

「噂に過ぎません」

 ピシャリと言い放たれて肩をすくめる。そうだ。そんな方法で結べるのなら引き継ぎ制度なんていらない。自分の浅はかさに泣きそうになった。
 そんな私の様子を見かねてか、職員は先程より声音を和らげてくれた。

「まだ完全にほどけた訳ではありませんし、政府も霊力が馴染むのに時間がかかっているという見解です。ですから、今できる手立てがないか、私のほうでも出来る限り調査してみます」

「……もしこのまま、結びがほどけてしまったら、どうなりますか」

 職員はわずかに視線を逸らし、眼鏡のブリッジを押し上げる。

「私と同じく霊力の相性が良い引き継ぎを探すか、もし、見つからなかった場合は……」

 職員が言葉を切る。でもその先は、否応なしに伝わってしまった。
 本丸の解体。
 それしか、ないのだろう。ここの本丸は一度そういった事態に陥っている。ようやく引き継いだはずの審神者もこの有様では、二度目は、ないのかもしれない。

「――失礼する。近侍の長曽祢だ」

 障子戸越しに長曽祢さんの声がした。もうそんなに経っていたのだろうか。狼狽える私の代わりに職員が返事をし、長曽祢さんが入ってくる。

「……主? 顔色がすぐれないようだが」

「え、と……」

「申し訳ありません。私が少し喋り過ぎてしまいまして。疲れてしまったのかも」

「……本当か?」

 心配そうに覗き込まれ、慌てて視線を逸らした。今、長曽祢さんに優しくされると泣いてしまいそうだった。

「ほ、本当。ちょっと、まとめ直さないといけないこととか、多くて……だから、この後の本丸内視察、ふたりで先に行ってて欲しいんだけど、いいかな」

「おれは構わんが……」

「分かりました。近侍殿がいれば問題ありません。少し休んでから、ゆっくり来てくださいね。……行きましょう、長曽祢虎徹」

「あ、ああ」

 ふたりを見送って、足音が完全に消えたあと、深く、深く息をつく。
 どうして、だろう。
 私は、何か間違ったのだろうか。本丸との結びがほどけるほどの何かを。思い出せない。思い当たらない。私は、私なりに頑張ってきたつもりだった。ある日審神者の適性ありと通達され、そのまま審神者の養成校に入り、そこで引き継ぎ本丸の話を持ちかけられて今に至る。
 しかし、そこには確かに意思があった。自分の意思で審神者になると決めて、自分の意思でここを継いだ。みんなと仲良くなりたいと願ったのも私で、そのためにできる限りのことをしてきたのも私だ。
 なのに、どうして。
 ふらりと立ち上がる。無性にみんなに会いたい気持ちになった。今まで私がやってきたことを、振り返りたくなったのかもしれない。
 庭に出ると、木枯らしが頬を撫でた。秋の冷えた風は頭の中が冴えるようで心地いい。足元では枯葉がかさかさ舞っていて、そういえば先日、掃除当番である同田貫さんがいくら掃いてもキリがねえとボヤき、それを聞いた獅子王くんがいっそ集めて焼き芋しようぜとはしゃいでいたのを思い出して、ようやく少し笑うことができた。
 今日は視察があるから出陣も遠征も組まなかったので全ての男士がこの本丸にいる。みんなにとっては非番と同じだから、きっと向こうの庭で蹴鞠会の子たちが遊んでいるだろう。そう思い、私はかつて浦島くんが導いてくれたあの庭へと向かった。

「――さま!」

 その声を聞いたとき、私の足は凍りついた。
 庭は、確かにあの子たちがいた。混ざって遊んでいたのであろう岩融さんや山伏さんの姿も見える。その誰もが笑顔で、私の知らない名前で職員を呼んでいた。隣にはもちろん長曽祢さんがいる。
 これは、かつてこの本丸にあった風景だ。
 職員が長曽祢さんに何かを語りかけ、長曽祢さんは困ったように首に手をやり、それを見た職員がクスクスと笑っている。遠いので何を話しているのかは聞き取れないが、楽しそう、とか、微笑ましい、とか、そういった言葉が頭に浮かんで消えた。

 なんてお似合いのふたりなんだろう。

 私は、凍った足とともに、遠巻きにその風景を眺めていた。

 その後、定刻通りに視察が終わり職員を見送ると、私は長曽祢さんに適当な嘘をついてその場をあとにした。長曽祢さんは何か言いたげに呼び止めていたが振り切って、かといって仕事をする気になど到底なれなかった。
 あてどなく本丸内をうろつく。頭の中は空虚でぼんやりとしていた。だから自分が今どこを歩いているかなど気にも留めていなかった。

「――っと! 主?」

 曲がり角で誰かにぶつかりかけた。咄嗟に長曽祢さんを思い浮かべたが、声は高く涼やかなものだった。

「蜂須賀さん……」

「どうしたんだい? 顔色が悪いように見えるけれど……」

 長曽祢さんとは違う容姿で、長曽祢さんと同じことを、蜂須賀さんは言った。
 ああ。真作と贋作でもこの刀たちは兄弟なんだ。ほんものと、にせものなのに、こんなに確かな絆がある。なのに私は。

「あ、ご、ごめん。ちょっと疲れてて。部屋、戻るね」

 そう言って踵を返そうとした。

「主」

 それを、柔らかく制される。

「少しだけ付き合ってもらえるかな」

 私が歩いていた場所は虎徹の相部屋にほど近い場所だったらしい。この本丸は特に個別部屋の希望がなければ刀派や刀種によって部屋分けがなされており、虎徹兄弟も同じ部屋で過ごしている。長曽祢さんだけは近侍部屋を使っているので、今の虎徹部屋に彼の私物はほとんどない。私にとっては、少しありがたく感じた。
 蜂須賀さんに促されるまま部屋へ入り、ふかふかの座布団に座らされた。

「最近、紅茶に興味があってね。ぜひあなたにも振る舞いたいと思っていたところなんだ」

 茶箪笥から四角い缶と丸いティーポットを取り出し、手慣れた様子で準備している。蜂須賀さんと紅茶。確かによく似合うな、なんて思ったりした。

「――それで、何かあったかい?」

 あとは抽出を待つだけになった頃合い、蜂須賀さんが切り出した。けれど私は唇を噛む。答えられない。答えられるはずがない。あの風景を見て、審神者だった職員と近侍だった長曽祢さんを見て、こんなにも理解してしまった。

 本丸の結びがほどけた理由。
 私がこの本丸の、ほんとうの主に成れないからだ。

「言いたくないのなら、無理にとは言わないよ」

 蜂須賀さんの手が伸びる。自然と握り込まれていた私の手を取って、宥めるように指を広げると自分の手を重ねた。

「でも、これだけは聞いて欲しい。俺たちはいつでも、あなたの味方だ」

 ぽた。
 雫が、蜂須賀さんの手の甲に滲む。一度堰を切ったそれは止めようがなく、ぼろぼろとこぼれ落ちた。
 情けなくてごめんって、気遣ってくれてありがとうって、言わなきゃいけないのに、私の喉はうめき声しか出ない。せめて涙は止めなくちゃと、そう思えば思うほど視界はぼやけていった。
 分かりきっていたのに。私はこの本丸を、ただ引き継いだだけ。なのにみんなと仲良くなりたいなんて、思うことが贅沢すぎる望みだった。これは私が招いた当然の結果だ。私は、……私は?

 ああ、私は、こんなに泣くほど本丸のみんなが好きになっていた。

 泣き続ける私に、蜂須賀さんは何も言わず紅茶を差し出してくれた。その優しさにまた涙が溢れたが、ひと口飲むと優しい甘味と香りがいっぱいに広がって、胸の痛みが少し和らぐ気がした。
 これからこの本丸をどうするのか、考えなきゃいけない。だけど、もう少し、もう少しだけ、この暖かい空気の中を漂っていたいと思った。

 主の様子がおかしいのは、すぐに分かった。きっと先代にあれこれと指摘されたからだろうと思ったが、主は決して口を割らなかった。それどころかおれと会話することもほとんどなく、先代が帰ったあと半ば逃げるように姿を消した。
 本当に疲れているのなら夕食はあとにした方がいいかと思い厨番にそう伝え、それを主に知らせようとしたが客間にも寝室にもいない。何かと一緒にいる浦島なら行き先を知っているのではと虎徹の部屋に向かったが、直後、おれは後悔することになる。

 主が泣いている。
 その手を、蜂須賀が握っている。

 雪見障子越しにそれを見た瞬間、ぐらりと視界が歪んだ気がした。慌ててその場を離れ、人気のない場所まで来ると壁を殴らん勢いでもたれかかった。
 あんな風に泣く主を見るのは初めてだった。おれの前で弱音を吐いたことなど、一度もなかった。茶化すように言うことはあっても、あれほどまでに深刻な様子で感情を曝け出す主は、おれは知らない。
 だが、蜂須賀の前で主は。
 心臓がドクドクと早鐘を打つ。息が苦しい。おのずと胸を掻きむしり、奥歯を噛んで目を閉じた。
 知らない。おれは何も知らない。おれは、彼女のことも、蜂須賀のことも、何も知らなかった。知る由もなかった。主がおれを近侍から外さないことで、心のどこかで安心していた。おれには、そんな資格などないのに。蜂須賀は虎徹の真作で、おれはただの贋作だ。ならば主に相応しいのは。

 おれは、こんな想いを抱えていていい刀ではない!

「――は、」

 詰めていた息を吸った。そのまま何度か深呼吸して、冷えた空気を体に取り込むと幾分か頭も冴えてくる。
 そうだ。おれと主の間には、もとより何もないのだ。あの夏、おれが浦島に語ったとおりに。ならばこれからもその関係を続ければいい。何も変わりはしない。これらは全て、最初からなかったことなのだから。
 俺はもたれかかっていた壁から離れ、もう一度深く呼吸をした。心臓は、静かに脈打っている。普段と変わらない鼓動に安堵し、今度こそ歩き始めた。

 彼女が蜂須賀を選ぶその日まで。おれはおれの、勤めを果たす。それだけだ。