「わたしと不健全をしましょう」
唐突、としか言いようのないひと言だった。迫る提出期限の書類を必死で纏めているさなか、日没まであとひと息という時間に主が顔を上げたかと思うとそんなことを宣ったので、我は瞠目し言葉を失った。
しかしその言葉を発した当の主はいかにも真面目くさった面持ちで我に視線を寄越している。眉間に皺、唇は尖り、不健全というよりは不機嫌である。
「……具体的は、何を」
ため息まじりに反応を伺う。真意が何処にあるか分からぬうちは下手に刺激するものではない。すると主はぱっと表情を変え、ふふふと笑った。
「これから現世に行きます」
「……それで?」
「え」
「現世に行って、何をするのだ」
その先を促すと、何故か主はあーとかうーとか唸っていた。
「え、っと。稲葉さん、止めないんですか?」
「止めてほしいのなら羽交い締めにしても止めるが」
「そ、そうではなく! ええっと……近侍なのに、書類放り出して遊びに行こうなんていう主、ふつう止めません?」
それは尤もな言葉だと言える。
――しかし。
「別の意図があるのだろう」
息を呑む音がした。
「『普通』、お前はそんなことを言わない」
真っ直ぐに。主を見つめる。彼女もまた、真っ直ぐ我を見つめたまま動かなかった。その表情は、まるで迷子の子供のようだった。
「支度しろ」
「え、」
「お前が言い出したのだろう。不健全とやらをするのだと」
立ち上がって上着を羽織ると、主も慌てて「着替えてきます!」と執務室を出ていった。
雑踏、喧騒。現世の夜はどこを歩いても人ばかりで、星も見えぬほど煌々と明かりが灯っている。任務で何度か訪れたことがあるとはいえ未だ慣れぬ光景のなかを、主は勝手知ったる様子で人混みをかき分けていた。生まれ育った街なのだ、と以前に聞いたことがある。
「遅くまでやってる喫茶店があるんです。そこに行きましょう」
そう言って主――いや、彼女は笑っていた。
大通りを抜けて幾つか角を曲がると、薄暗い路地の中にぼんやりとした照明が見えた。一見するとただの民家に見えなくもないが、ガラス張りの大窓に店名らしき名前と、奥にカウンターとテーブルが幾つか並んでいるのが見えた。先頭を歩く彼女は古めかしいドアに手をかけ、取っ手を引くとベルがからんと鳴った。
「いらっしゃいませ、お二人ですか」
お好きな席へどうぞ、と店主らしき壮年の男性がカウンター越しに声をかけた。我らのほかに客はない。ちらと彼女に視線を寄越すと、彼女はテーブル席を選んだようだった。
「ここね、好きなお店なんです。現世に戻るとつい寄っちゃうの」
配られた手拭きを両手で持ちながら彼女は笑う。
「稲葉さん、なにがいいですか? コーヒーとか飲むっけ。ここのコーヒー美味しいですよ」
「長船派に勧められてからは飲む機会は多い。……が、今飲むと眠れなくなるだろう」
「いいんですよ、不健全なんですから」
「……なるほどな」
「あ、今ちょっと笑いましたね。いいでしょう不健全」
「笑っていない」
「意固地だなあ」
そんなやり取りを繰り返し、結局彼女の勧められるままブレンドコーヒーと、彼女の気に入りであるというガトーショコラを注文した。ほどなくして品がやってくると、確かにどれも美味かった。
「……美味い」
「でしょう? ここのガトーショコラ好きなんです。あ、みっちゃんが作ってくれるやつももちろん好きなんだけど、みんなに作る用のものだからまた味わいが違うというか」
「ああ、それは分かるな。こちらの品はコーヒーに合うよう作られていると感じる」
「さすが稲葉さん。それです」
あははと笑って、彼女もまたコーヒーを飲んでほうとため息をついた。
――その笑顔の裏にある感情を、ずっと隠したまま。
「いい加減、白状したらどうだ」
カチャ、とカップがソーサーに触れる。
「……なんで分かるのかなあ」
「お前が分かりやすいからだ」
「そんなことない。だって……」
視線が下へ下へ、下がっていく。
「分かりづらい、って言われたの」
「誰に」
「昔、付き合ってた、ひと」
まるで、
「笑ってばっかで全然自分のこと話さないって、何考えてるか分かんないって、それで……」
コーヒーの、上澄みだけを飲み込んでいるようだった。
「あの書類の中に名前があったか」
彼女はぎくりと肩を跳ね上げ、それから恐る恐る我を見た。
「な、なんで……」
「見ていたら、分かる」
執務室での作業は集中してやっていた。期限こそ近かったが、順当にやっていれば明日には終わるだろう進み具合だった。だが、ある一枚の紙を手にしたときから彼女の顔色が変わった。あれは葉書だ。おそらくは――結婚式の案内。積み上がった書類に紛れてしまったのだろう。
包み隠さず考えを述べると、彼女はそれまで取り繕っていた笑顔をやめ、肘をテーブルについて項垂れた。
「は、はは……そのとおりだよ。すごいね、稲葉さんは……」
ぽたり、と。テーブルの上に雫が落ちる。
「何年も、前だよ。何年も前のこと。なのに、ああやって、名前見て、こんなぐちゃぐちゃになってるの。ばかみたいだよね。ほんと……」
雫はいくつもテーブルに落ちていく。
「ごめんね、こんなことに付き合わせちゃって……ほんとにごめ」
「何故謝る」
我の放った一言は、彼女の顔を上げさせるのに十分だったようだ。彼女は驚いた様子で我を見る。
「気に入らぬなら着いて来てはいない」
「で、も。主命、とか」
「断れぬ主命を押し付けるような主ではないだろう」
「そ、うだけど……っていうか、稲葉さんほんとによくわたしのこと見てるね……」
「当たり前だろう。他ならぬお前のことだ」
「そ、か……そっか。ありがとう……」
彼女は目元を何度か拭うと、ようやく背筋を伸ばして笑った。
「ありがとう、稲葉さん。ちょっとだけ気が晴れたよ」
その笑顔は、本丸で見ているものと同じだった。屈託なく、柔らかく、それでいてどこまでも、
「勘違いをしていないか」
「え?」
コーヒーのカップに口をつける。少し冷めた苦味が口の中に広がり、嚥下すると頭が冴えた。
「他ならぬお前のことだと、我は言ったな」
「うん……それは、」
「主ではなく。お前だからだと。我は言っている」
一つ一つ。言い聞かせるように。『彼女』に言葉を投げかけてやると大きく瞳を見開いた後に頬を紅潮させた。
「そ、そそ、それ」
「ただの臣下がここまですると思うか? この稲葉江が?」
「え、と」
「我はあの葉書を切り刻んでやりたい」
「ひ、ひえ……」
「それから、お前の心をかき乱すその男も」
「それは色々とだめだって!」
「ならば覚悟しておけよ」
「なに、を」
コーヒーの最後の一滴まで飲み込むと、我は彼女の目を見据えた。
「これから我に口説かれることをだ」