透明な標

 鍛冶屋で今日の指導を終えて帰路についた俺は、博士の家まで続く道のりを目で追って溜息を零した。任務が落ち着いてきたおかげで好きな事に従事できるのはいいのだが、帰り道のことを考えると毎回少し憂鬱だ。博士の家がべらぼうに遠いわけではないはずだが、小高い丘の上にあるのでやたらと距離を感じる。登る時はなおさらだ。識との一戦から里人との距離が埋まってきたことだし、いっそ家も麓に置けばと進言したこともあったが、返ってきたのは「お前が屋敷の資料設備全て運んでくれるならばな」だった。ああこういう奴だよな、と俺はそれ以来言うのを止めた。
 外はすっかりと日が暮れ、星がちらつき始めている。太陽は山の向こうに姿を隠したところで、山際が赤く照らされていた。丘を登り始めると、黒い影と共にキッキッキッと鳴く声が空の向こうに飛んでいった。あれは確か夜鷹という鳥だったか、と影が消えた方を視線で追うと、丘の頂上に行き着いた。そしてぽつりと佇む人影にも。

「未登録名前」

 近寄って声をかければ、我らが隊長、未登録名前がくるりとこちらを向いた。だけどすぐに視線を戻してしまう。

「なにしてんだよ」

「空みてる」

 そりゃ見れば分かる。視線はさっきから、空に釘付け。首を思いっきり曲げて、口なんか金魚みたいに開けっ放し。こいつの奔放さは、時々、自分の性別を忘れちまってるんじゃないかとすら疑う。

「……そうじゃねえよ。空になにかあるのか?」

 未登録名前にならって空を見上げるが、太陽が完全に消えて星が増えたくらいの変化しか見当たらなかった。これでも機械の目だ、見落とすってことはないはずだが。

「何かはないけど」

 視線はあくまで空に向けたまま。

「何かは思い出してた」

 俺はぎょっとした。なぜぎょっとしたか、こいつには記憶がないからだ。生まれも育ちも、親も兄弟のことも――もしかしたらいたかもしれない恋人のことも。
 だが、俺はそれが救いだと思っていた。未登録名前は先の戦で識にこう告げられていた。「私はお前を実験に利用していた」と。あの識がすることだ、どうせろくな実験じゃない。それならば、忘れてしまったほうが未登録名前のためだと思っていた。もちろんそんなことは本人の前では絶対に言わないが、ともかく、未登録名前がなにか思い出していたということは、それらの記憶も呼び起こされてしまったのかと、俺は内心冷や汗をかいていた。多分、生身だったら実際かいてた。
 けれども俺の思惑とは裏腹に、未登録名前は開けていた口を閉じて弦月のように曲げたのだ。それから薄く唇をひらいて、

「銀河鉄道ってのがあるわけ」

「……は?」

 ぎんがてつどう。
 頭のなかで復唱してみても、それが一体なんなのか、どういう字を当てるのかすら理解できなかった。混乱して押し黙っていると、やっぱりわかんないよねーという笑い声がした。

「この空のどこかに、銀河鉄道っていうのがあるの。汽車がゴトゴト走ってるの。金剛石をいちめんにぶちまけたみたいな、きれいな銀河の川床の中をさ。それに乗ると、もう色んな所にいけるの。プリオシン海岸にだっていけるよ。あ、歌う双子にも会えるのかな?とにかく色んな、きれいなところ」

 言っていることの半分も理解できないのに、なぜだろう、もっと聞きたい。それが通じているのか、未登録名前はまだ話し続ける。
 きらきら光る銀の川面を滑るように走る「てつどう」。銀の三角標を横目に、月長石が刻まれた竜胆の原を越えてどこまでも。化石を掘る人がせわしなく海岸を行ったり来たりして、鳥を捕る人が今しがたとってきたばかりの鷺を見せてくれる。鷺はまるで氷砂糖で、ぽきりと折れば甘い香りが「きしゃ」の中いっぱいに漂った。
 きっと今目の前にあるのは、黒いびろうどを敷いた空とカンラン石で出来た山だ。水晶が吐き出した霧を少しずつ吸い込んでいて、少し深く呼吸すれば、肺が霧で満たされて、すうと透き通ってくる。そのうちゴトゴト音が聞こえて、銀河から延びる光の筋が目の前に現れるだろう。

「でも、さ」

 ふっ、と。
 まるで映写機が途切れるように。

「思い出せないんだ、そこから先。汽車はどこへ行こうとしてたのかな。私は、それに乗ってたんだと思うのに、どうしても思い出せない」

 傍らに立つ未登録名前を見つめる。

「未登録名前は、どこに行こうとしてた?」

 青白い明かりに照らされても、未登録名前の顔がよく見えない。夜は、こんなに暗かっただろうか。静かで、寒かっただろうか。

「分からない。そもそも、本当に乗ってたのかな。おとぎ話だったかもしれない。なのに、」

 未登録名前は空に向かって手を伸ばした。モノノフのくせに女らしく白い手は、黒い空にまっすぐ伸びて、さながら空への道標だった。

「こんなに、はっきり、覚えてることがあるんだよ」

 未登録名前がゆっくりと道標を握り込む。俺には、何かに合図を送るように見えたのだ。

「……時継?」

 俺は未登録名前の、標ではないほうの手を取っていた。未登録名前の顔は相変わらずよく見えないが、声の調子からして大層驚いているのが分かる。けれど、俺はその手を離せなかった。離してしまえば、このまま未登録名前がどこか知らないところへ行ってしまう気がした。この時ばかりは機械の体でよかったと思う。そうでなければ、きっと情けない顔を未登録名前に見せているところだった。

「すまねえ。ちょいと、体の調子が悪いみてぇだ」

 本当に、機械の体でよかったと、心から思った。

(それとも、生身ならお前を繋ぎ止める標になれただろうか)
2016年11月16日 16:14:16 の変更内容が競合しています:
 鍛冶屋で今日の指導を終えて帰路についた俺は、博士の家まで続く道のりを目で追って溜息を零した。任務が落ち着いてきたおかげで好きな事に従事できるのはいいのだが、帰り道のことを考えると毎回少し憂鬱だ。博士の家がべらぼうに遠いわけではないはずだが、小高い丘の上にあるのでやたらと距離を感じる。登る時はなおさらだ。識との一戦から里人との距離が埋まってきたことだし、いっそ家も麓に置けばと進言したこともあったが、返ってきたのは「お前が屋敷の資料設備全て運んでくれるならばな」だった。ああこういう奴だよな、と俺はそれ以来言うのを止めた。
 外はすっかりと日が暮れ、空の色が薄紫から濃紺へと移り変わっている。太陽は山の向こうに姿を隠したところで、山際が赤く照らされていた。丘を登り始めると、黒い影と共にキッキッキッと鳴く声が空の向こうに飛んでいった。あれは確か夜鷹という鳥だったか、と影が消えた方を視線で追うと、丘の頂上に行き着いた。そしてぽつりと佇む人影にも。

「未登録名前」

 近寄って声をかければ、我らが隊長、未登録名前がくるりとこちらを向いた。だけどすぐに視線を戻してしまう。

「なにしてんだよ」

「空みてる」

 そりゃ見れば分かる。視線はさっきから、空に釘付け。首を思いっきり曲げて、口なんか金魚みたいに開けっ放し。こいつの奔放さは、時々、自分の性別を忘れちまってるんじゃないかとすら疑う。

「……そうじゃねえよ。空になにかあるのか?」

 未登録名前にならって空を見上げるが、太陽が完全に消えて星が増えたくらいの変化しか見当たらなかった。これでも機械の目だ、見落とすってことはないはずだが。

「何かはないけど」

 視線はあくまで空に向けたまま。

「何かは思い出してた」

 俺はぎょっとした。なぜぎょっとしたか、こいつには記憶がないからだ。生まれも育ちも、親も兄弟のことも――もしかしたらいたかもしれない恋人のことも。
 だが、俺はそれが救いだと思っていた。未登録名前は先の戦で識にこう告げられていた。「私はお前を実験に利用していた」と。あの識がすることだ、どうせろくな実験じゃない。それならば、忘れてしまったほうが未登録名前のためだと思っていた。もちろんそんなことは本人の前では絶対に言わないが、ともかく、未登録名前がなにか思い出していたということは、それらの記憶も呼び起こされてしまったのかと、俺は内心冷や汗をかいていた。多分、生身だったら実際かいてた。
 けれども俺の思惑とは裏腹に、未登録名前は開けていた口を閉じて弦月のように曲げたのだ。それから薄く唇をひらいて、

「銀河鉄道ってのがあるわけ」

「……は?」

 ぎんがてつどう。
 頭のなかで復唱してみても、それが一体なんなのか、どういう字を当てるのかすら理解できなかった。混乱して押し黙っていると、やっぱりわかんないよねーという笑い声がした。

「この空のどこかに、銀河鉄道っていうのがあるの。汽車がゴトゴト走ってるの。金剛石をいちめんにぶちまけたみたいな、きれいな銀河の川床の中をさ。それに乗ると、もう色んな所にいけるの。プリオシン海岸にだっていけるよ。あ、歌う双子にも会えるのかな?とにかく色んな、きれいなところ」

 言っていることの半分も理解できない。なのに、なぜだろう。聞いていると、まるで自分もその場所に立っているような気分になっていく。
 きらきら光る銀の川面を滑るように走る「てつどう」。銀の三角標を横目に、月長石が刻まれた竜胆の原を越えてどこまでも。化石を掘る人がせわしなく海岸を行ったり来たりして、鳥を捕る人が今しがたとってきたばかりの鷺を見せてくれる。鷺はまるで氷砂糖で、ぽきりと折れば甘い香りが「きしゃ」の中いっぱいに漂った。
 きっと今目の前にあるのは、黒いびろうどを敷いた空とカンラン石で出来た山だ。水晶が吐き出した霧を少しずつ吸い込んでいて、少し深く呼吸すれば、肺が霧で満たされて、すうと透き通ってくる。そのうちゴトゴト音が聞こえて、銀河から延びる光の筋が目の前に現れるはずだ。

「でも、さ」

 ふっ、と。
 映写機が途切れるように。

「思い出せないんだ、そこから先。汽車はどこへ行こうとしてたのかな。私は、それに乗ってたんだと思うのに」

 俺は傍らに立つ未登録名前を見つめる。青白い明かりに照らされても、未登録名前の顔がよく見えない。夜は、こんなに暗かっただろうか。静かで、寒かっただろうか。

「未登録名前は、どこに行こうとしてた?」

 そう聞くのがやっとだった。先ほどまでと違い、未登録名前の声はあまりにも、色がなくなっていた。

「分からない。そもそも、本当に乗ってたのかな。おとぎ話だったかもしれない。なのに、」

 未登録名前は空に向かって手を伸ばした。モノノフのくせに女らしく白い手は、黒い空にまっすぐ伸びて、さながら空への道標だった。

「こんなに、はっきり、覚えてることがあるんだよ」

 未登録名前がゆっくりと道標を握り込む。
 俺には、何かに合図を送るように見えた。

「……時継?」

 俺は未登録名前の、標ではないほうの手を取っていた。未登録名前の顔は相変わらずよく見えないが、声の調子からして大層驚いているのが分かる。けれど、俺はその手を離せなかった。離してしまえば、このまま未登録名前がどこか知らないところへ行ってしまう気がした。この時ばかりは機械の体でよかったと思う。そうでなければ、きっと情けない顔を未登録名前に見せているところだった。

「すまねえ。ちょいと、体の調子が悪いみてぇだ。しばらくこうさせてくれ」

 こんな言い訳ができるうちは、本当に、機械の体でよかったと心から思った。

(それとも、生身ならお前を繋ぎ止める標になれたのだろうか)