今日は朝からついていなかった。目覚ましが鳴らなかったおかげで電車を逃し、学校についたら遅刻で叱られ、階段を登っている途中で転んで膝を擦りむき、友達とは些細なことで喧嘩をし、帰り際には運悪く先生に頼まれごとをしてこの時間まで居残りだ。ざっと思い返しても良いことが全く思いつかず、私は深いため息を零した。
太陽は半分くらい姿を覆い、辺りは夜にさしかかろうとしている。住宅街の細い道路では人の姿もあまりなく、気落ちした私の心をさらに煽った。おまけに午後から風も強くなってまだ止まず、やたら目にゴミが入ってひどく痛い。本当に今日はついていないらしい。じわじわ溢れる涙は、ゴミだけのせいじゃないと分かっている。
仕方ないのでハンカチで拭おうとカバンから出したが、その瞬間、ひときわ強い風が吹いた。
ふわりと舞うハンカチ。
あれは、お母さんに貰ったんだった。
以前お気に入りのハンカチを無くしたから。
だけど、もう手が届かない。
あんなに高く。
涙が溢れたその時、背後から足音がした。勢いよく走る音。びっくりして振り返ると、音の主は地を踏みしめて飛んだ。
まるでスローモション映像。小柄な子が、空中高く飛び上がっていた。赤い髪が夕陽を受けてキラキラと輝き、大きな瞳は楽しげに見開かれている。その高さは、私の身長――おそらくその子自身の身長ですらゆうに超えている。
羽。私には、その子の背中に羽が見えた。
「はいよ、コレ」
きれいに着地したその子は、私にハンカチを差し出した。背丈や顔立ちから女の子と思っていたが、声は男の子のものだった。一気に照れくさいような恥ずかしい気分になって、ハンカチをこわごわと受け取った。
「あ、ありがとう。……すごいね、君。あんなに高く」
だけど、もうダメだと思っていたから本当に嬉しくて、私はハンカチを両手で抱きしめる。その様子を見ていた男の子は手を頭の後ろにやって、にかっと笑った。
「あれぐらい、ちょろいちょろい。俺は羽生えてっからな!」
きっと、冗談のつもりで言ったんだろう。だけど私には、本当に羽が生えてるように見えたし、それくらい鮮烈なイメージが脳裏に焼き付いた。だから、冗談では返せなかった。
「確かに、あの瞬間、羽が見えたよ」
すると、男の子は目をパチクリと瞬かせたあと、ずいと私に詰め寄った。
「ほっほんとか!?やっぱ俺、羽生えてるよな!?」
「え?う、うん」
掴みかかるような勢いで言われ、戸惑いつつも頷くと、男の子は頰をかく。
「こう言うとさ……あいつら、友達がさ、みんな笑うんだよ。見えないのにあるわけねえって。そんな風に言ってくれたの、あんたが初めてだ」
ありがとな、と男の子は太陽みたいな笑顔を見せてくれた。その煌めきに、さっきまで沈んでいた私の心はすっかり浮上していた。
「私は信じるよ。君の羽。かっこよかったもん」
「そ、そうか?へへっ、ちょっと照れくさいな」
その時、ピリリと電子音が響いた。携帯の着信みたいだけれど私のじゃない、そう思っていると、男の子が慌てた様子でズボンのポケットに入れていたらしい携帯を取り出し、画面を見て眉をしかめた。
「あー……待ち合わせてるやつだ。早く来いって……」
「えっ、じゃあ早く行かないと。ごめんね、時間とらせて……」
「いや全然!むしろ楽しかったぜ!」
「そう?」
「おう!」
男の子は携帯をしまうと、さっと駆け出しながら手を振った。
「じゃーな!羽、信じてくれてありがとな!」
返事をしようとしたが、やっぱり運動神経がいいからか、あっという間に姿が遠のく。
あの男の子自身が、一陣の風みたいだった。ほんの少し話しただけなのに、こんなにも強く印象付けられている。幾分穏やかになった風を受けながらそんなことをぼんやり思った。
次の日は、好調だった。朝は目覚ましより早く起きられてゆっくり朝ごはんを食べ、電車では座席に座ることができ、少し早くついた教室では喧嘩した友達がいて、仲直りすることができた。昨日の運が全て今日にまわってきたみたいだった。だから、私はあえて遅くに学校を出た。同じ時間にあそこを通れば、またあの男の子に会えるような気がして。そうしたら、きちんとお礼をしたいと強く思った。
細い道路に差し掛かり、きょろきょろと辺りを見回すが、あの男の子の姿は見えない。わざとゆっくり歩いてみても人の気配はまるでなく、やがて道路は大きな国道にぶつかる。ここの横断歩道を超えたらすぐに家だ。そこまでついてはいなかったんだな、と少し気落ちしながら信号を待った。
「あー、どこに行ったんだろ」
人混みに紛れて。
聞き覚えのある声。
「いつも通ってるんは、違う道かもしれへんな」
「んなっ!それじゃどうしようもねえぞ!俺だっていつもあの道通らねえのに!」
「なんで名前くらい聞かへんかったん」
「侑士が急かすから聞きそびれたんだろ!」
「人のせいにしなや」
「くそくそ、せっかく羽褒めてもらったってのに……あーあ、また会いてえな」
「あっあの!」
信号が変わって、周囲の人たちは一斉に動きだす。けれど、私たちは動かなかった。
赤い髪の男の子は、私を見つめてぽかんと口を開けていた。あんなに格好よかった昨日とは打って変わったその表情に、じわじわと愛おしさが混みあげる。
「私、未登録苗字未登録名前って言うの。君は?」
男の子はまだ呆然としていたが、隣にいたメガネの男の子が背中を小突くと慌てた様子で頭を振った。
「おっ俺は向日、岳人!」
「向日君ね」
「いっいや。岳人でいい」
「そう?」
「……おう!」
それから、羽のある男の子、岳人君が少しだけ回り道をしながら帰るようになったのは、また別のお話。