私が教えたドッジボールは短刀と新選組仲間を中心として瞬く間に広まり、時に混ざったり、男士同士の試合を観戦したりして、この本丸における日常の一部になるのにそう時間はかからなかった。聞くところによると前任の審神者は体が弱く病気がちで、一緒に遊ぶといえば室内遊びだったのだという。なるほど、だから浦島くんは体が丈夫かどうかを尋ねたのかと合点がいった。
そんな日常を過ごすうち、みんなとも徐々に打ち解けていった。食卓を囲めば必ず誰かが話しかけてくれるし、執務室には間を置かずして来訪がある。お菓子の差し入れだったり、遊びの誘いだったり。休憩と称してサボりにくるものもいて、それを咎めに来た兄弟刀が探しに来たりと、騒がしくも楽しい日々を過ごしていた。
そうしているうちに『主』というものが自然に呼び分けられるようになった。混同を避けるためだ。刀だった頃の持ち主が前の主、前任者のことは先代、そして私のことが主または当代だ。「先代当代って、なんかやくざみたいだね」と厨の手伝いをしていたとき燭台切さんに言ってみたら、「それなら君のことはお嬢って呼ばなきゃかな」なんて冗談が返ってきたので、つまりみんなとはそういう間柄になれた、ということである。
審神者の仕事にも慣れて、事務的な仕事や日課、遠征や出陣なども滞りなく終えられるようになった。相変わらず資材の消費ペースを指摘されはするが、それはそっちが寄越す予算が少ないからだろうと意見できるくらいには心の余裕も出てきた。それを聞いていた長曽祢さんは苦笑いしていたが気にしない。
やがて、季節は私が就任した春から初夏へと移り変わっていた。
「……蒸し暑い」
ついに根負けし、机に倒れかかった。しかしそこにあるのは排熱を続ける通信端末であり、冷たい天板ではない。じわりとした熱気が頬を伝うので結局また顔をあげる羽目になる。
涼しい風を呼び込むため開け放った障子戸の向こうは、昨日から続く雨ですっかり濡れて、風は梅雨独特の湿気を運んでくるばかりだった。
「暑いならば、先代の部屋に移動すればいいだろうに。あちらは客間と違い空調機がある」
そう告げたのは相変わらず近侍を勤めてくれている長曽祢さん。彼も少し暑そうで、額にうっすらと汗が滲んでいるのが見て取れる。それでも私が言い出すまでそばにいてくれるのだから、優しいというか真面目というか。
「それはそうなんだけどさー……」
確かに彼の言うことは尤もで、執務室を客間じゃなく先代の部屋に移したほうが話は早い。今ならみんなも気兼ねなく使っていいよと言ってくれるだろうとは、思う。
思うけど、私の方がダメなのだ。この本丸の主になると心を決めてはいるものの、結局のところ私はただの引き継ぎだ。そこの線引きはきちんと定めておかなければいけない。それが私にできる、この本丸を設立した先代への敬意なのだから。
「主」
「なにー」
「散歩に行かないか」
突然の提案に、私は体を起こした。
「えっ、雨だよ?」
「しかし部屋に篭りきりでは気も滅入るだろう」
「まぁ確かに」
「それに……」
見せたい場所があるんだ、と、長曽祢さんはどこか懐かしそうに言った。
しとしと、雨が降っている。
私たちは本丸から少し離れた、物見櫓まで歩くことになった。天守のない本丸であるため有事の際はそこへ集まることになっているのもあり、ちょっとした運動場くらいの広さがある区画だ。しかし平時は水堀や溜池が一望でき、それらを囲む木々や草花が季節とともに色を変える様子がうかがえる。この本丸随一の名所だ、と言っていたのは風雅を愛する歌仙兼定さんだったか。
本丸の縄張を囲う水堀に沿って、並木道を歩く。水辺だからか吹く風が涼しくて、これは部屋にいるよりずっと心地いい。ぱたぱたと雨粒が葉っぱを打つ音や、遠くで雨蛙が鳴く声を聞いていると胸がすくような気持ちになった。
そんなふうに景色や空気を感じながら長曽祢さんの背中を追っていると、不意に彼が足を止めた。
「ここだ」
傘を少し傾げると、そこにあったのは一本の枯れ木だった。しかし、かなり大きい。幹は短刀が数人隠れられるほど太く、枝はいくつも分かれてしな垂れるほどある。ひと目見て、なんて立派な木なのだろうと感嘆した。
「これは……桜?」
「ああ。皆は千年桜と呼んでいる」
本当に千年の樹齢があるかは調べていないがなと長曽祢さんは冗談めかしていたが、そう言われても納得するほど立派な枝ぶりだ。本来なら青々とした葉を広げる季節だろうに、枯れているのが勿体ないとさえ思う。
「本丸を設立する際、この桜を起点としたらしい。おれはそのときまだ顕現していなかったが、樹齢からして相当な霊力を宿していたようだからな。本丸の守りとしたのだろう」
「でも、枯れちゃったの?」
「……先代が、この本丸を維持できなくなったからだ」
それは。
私が今まで聞きたくても聞けなかった話。
「元々体が弱かったためだろう。ある時期から先代の霊力が低下し、それに伴い千年桜も少しずつ弱っていってな。こんのすけ曰く、『本丸と審神者の結びつきが弱まったからだ』と。やがて先代の霊力は本丸を維持するどころか、命さえ危ぶまれるほどになった。このままでは確実に死に至る――おれたちが執れる選択肢は、一つきりだった」
ずっと、不思議だった。
あんなに責任感の強い先代が、どうして本丸を去ってしまったのか。こんなに先代を慕っているみんなが、どうして私を受け入れてくれたのか。
この本丸は、私が想像していたよりも、ずっとずっと強い思いで結ばれている。
「だが」
凛とした声。自然に下がっていた傘を持ち上げると、長曽祢さんはあの柔らかい微笑みを携えて私を見ている。
「おれは、この桜が再び咲く日は近いと思っている」
それは、つまり。
私がこの本丸の『主』になれると。
彼は疑う余地もなくそう言っている。
「……咲く、かなぁ」
私にはまだ、自信がない。先代と彼らの強い思いを引き継ぐだけの器が、自分にあるのかどうかが。
もちろん引き継ぎたいという思いはある。けれど、思いだけではどうにもならない。なぜならここは戦場で、私は彼らの魂を預かる立場にあるからだ。先代はそれこそ命をかけて彼らを守った。私に、それができるのだろうか。
だけど。
「主なら大丈夫だ」
長曽祢さんの言葉を聞いていると、そんな私でも『できる』気がした。
「おれは初めて会った時からそう思っていたぞ」
は、と目を見張った。
「初めて、って……あの蕎麦屋の!?」
「ああ」
「いやどのタイミング!? あの時の私、恥ずかしいことしかしてなくない!?」
「あんたがとろろ蕎麦を頼んだあたりだな」
「いやいやいや、よりによってそこ!? なんで!?」
慌てふためく私をよそに、長曽祢さんはさらりとこう言った。
「あの時、主は『先のことを考えて』安いものを注文しただろう?」
すとん、と。
その言葉は私の中に入り込んだ。
そうか。そうだった。私はあの時、逃げ出すことなんか全く考えていなかった。直前までは頭によぎったこともあったが、職員が出て行ったあとは『これから先』をどうするか、そればかり考えていた。
引き継ぎだとは言っても、実のところ強制ではない。審神者が合わないと感じたのなら申請すればその意思は尊重される。流石に直ぐとはいかないが、辞めるという選択肢がないわけではなかったのだ。
ああ、そういうことか。
私はもうあのときから、本丸の一部になることを望んでいたのだ。
「……ありがとう、長曽祢さん」
「礼を言われるようなことはしていないさ」
「でも、長曽祢さんのお陰で気づけたんだよ。きっかけを教えてくれて、ありがとう」
「それは何より、だ」
雨はまだ止みそうにない。桜だって、枯れたまま。けれど、今の私には、いずれも寂しい風景には見えることはなかった。
「そろそろ体も冷えてくるだろう。本丸に戻るか」
「うん」
帰り道、行きとは違って私は長曽祢さんの隣に並んでゆっくりと歩いていった。
ずっと、伝えたかった。
言葉より行動というのはおれの信条であるが、時として言葉を優先しなければならない場合は確かにある。それは先代が、おれに身をもって教えてくれたことでもあった。
伝えたいことが伝わる。そしてそれが返ってくる。身体を得て、感情というものを得て、それらの心地よさには幾度となく救われた。
当代の主にも、そうあってほしい。
彼女がまだ先代のことを気にかけてくれているのは理解している。主の間を使わないのが何よりの証だ。だからこそ、少しずつでもいい、行動と言葉を以て『彼女にとっての居場所』を作り上げていけたらいいと、そう考えた。
本丸に戻ると、主には先に戻るよう伝え、おれは玄関口で二人分の傘から雫を落とす。すると、離れていく主と行き違いに別の足音が近づいてくるのに気がついた。聞き馴染みのある音だと思いながら、雫を落とした傘を傘立てに仕舞う頃、やってきたのは思った通り蜂須賀虎徹であった。
「……散歩か? この雨に」
その表情は固く、視線は鋭い。おそらく主とすれ違ったのだろう。
「気晴らしだ。長居はしていない」
「あそこへ連れて行ったのか」
蜂須賀の表情が一層険しくなる。その口調は咎めるようでもあった。
あそこへ主を連れて行くことの意味。それはこの本丸の誰よりも、蜂須賀虎徹が一番理解している。
「全て話したのか?」
「いや。先代の霊力が下がったが故に、というところからだ。それ以上のことは、おれの一存ではまだ話せない」
「そう、か……なあ。やはり俺が話すべきじゃないのか? 俺には初期刀としての責任もある。大体、そもそもの発端は――!」
「蜂須賀」
びくり、と蜂須賀の肩が跳ねる。
「蜂須賀には十分背負ってもらった。だから、ここから先はおれに任せてくれないか」
蜂須賀は何か言いたげに視線を彷徨わせたが、やがて下唇を噛むように俯いた。
「……俺は」
「うん」
「お前、に……損を、押し付けているな」
その言葉を、どれほどの思いで紡いだのか。
虎徹の真作という高い矜持を持ち、贋作を忌み嫌う蜂須賀虎徹という刀。その刀が、おれにこう言っているのだ。
『すまない』と。
「おれは一度も損だと思ったことはない」
できる限りの優しい声でそう告げると、玄関を上がって蜂須賀に背を向けて歩き出す。これ以上、蜂須賀虎徹が長曽祢虎徹に心を砕いてもらうわけにはいかなかった。
それに、と思う。
脳裏にあの彼女の姿を思い描いた。別れ際に見せた「ありがとう」の笑顔。その笑顔を守れるならば、これが仮に損だとしても安すぎる。
「おれのなかで、あんたは息づいてるんだよ」
独り言は、強まる雨音に掻き消えて溶け出していった。