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 ”ポッカリ月が出ましたら、船を浮かべて出掛けませう。”

「ありがとね、俺のワガママ聞いてくれてっ!」

「滅多にない八丁くんの頼みだもん、聞いてあげなくちゃ」

「やっさしー! 俺、雇い主が雇い主でホント良かったっ」

「私も、八丁くんがうちにきてくれてほんとに良かったよ」

「……うん」

 不意に雲の切れ間から、満月が顔を覗かせる。光は湖面を反射して、ヒタヒタ波打つ音と共に沈黙を埋めた。
 けれども俺は、櫂を漕ぐ手は止めないで、水を跳ね上げ舟を漕ぐ。

「遠くまで来ちゃったね」

 彼女の言葉に、そうだねと笑って返した。大げさすぎるくらいに、笑って、笑って。

「俺、もしかしたら怒られちゃうかもっ」

「えっ、そうなの? 悪いことしちゃった?」

「ぜーんぜん! だって俺が頼み込んだことだしっ?」

「でも、」

「いーの、いーの! 雇い主はなーんにも気にしないで」

「……ごめんね」

 櫂を漕ぐ手が、止まりそうになる。
 震えている気もした。何が? ――俺自身が。
 だけど、今この手を止めるわけにはいかなかった。

「じゃあ、さ……」

 ”櫂から滴る水の音は、昵懇ちかしいものに聞こえませう。”

「……なに?」

「ん、やっぱりなんでもないっ」

「そう言われると気になっちゃうよ」

「ごめんごめん。……雇い主はさ、優しいからさぁ」

 月が聞いている気がして、なんだか落ち着かなかった。

「コレ言ったら、多分……戻れなくなっちゃうから」

「……私が?」

「ううん。俺が」

 由無し事。詮無い話。とりとめもない。
 水の飛沫に乗って解けていく。

「もし」

 ぱしゃん、と一際大きな飛沫があがる。

「もし、私が引き止めたら」

”――けれど漕ぐ手はやめないで。”

「ダメだよ、雇い主」

 口許には笑みさえ携えて。

「雇い主は、みんなの雇い主だから。俺だけのものにしちゃいけないのっ!」

「……八丁くん、」

「いいんだよ、これで」

「もっと早く出会っていたなら」

「仕方なーい、仕方なーい」

「八丁くん、私、」

「雇い主」

 ついに漕ぐ手を止めて。
 波の流されるまま、小舟は桟橋へ寄り付いた。

「ここから先は俺は行けないから」

「ごめん、ごめんね」

「あやまんないでよ、俺のワガママ聞いてくれた優しい雇い主っ!」

「ちがう、やさしくなんてないよ、わたしだって八丁くんと」

「拗ねる雇い主もカワイイけどさ、俺やっぱ、笑ってる雇い主のほうが好き、かもっ?」

 なんて。おどけたようにしか出せない言葉が、ひどく俺を突き刺した。

「……ありがとう、八丁くん」

「そーそー! そうに言われたほうが、だんぜん嬉しいっ!」

「ありがとう……」

 そう言って、彼女はゆっくりと立ち上がった。

「ここまで連れてきてくれて、ありがとう。行くね」

「ん。気をつけて」

「気をつける、こと、あるのかなぁ」

「わかんないっ! でも、案外楽しいトコロかもよ?」

「……八丁くんがそう言うなら、そうなのかもね」

 だって優しい、私の神様だからね。

 最後に彼女はそう告げて、小舟を降りてその先へと踏み出した。辺りは白い霧が立ち込めていて、俺からはなにも見えない。だけど、彼女にはきっと見えているのだろう。

 彼岸の景色はどんな色をしているんだろう。

「おいっ!! 八丁念仏!! いつまで寝ているつもりだ!!」

 同室の古備前の兄さん――大包平兄さんの怒声で俺は跳ね起きた。

「え、今何時……」

「朝餉の時間はとっくに過ぎている。しかもお前、これから遠征だろう」

 その一言で、さっと顔が青ざめた。

「やばやばじゃんっ!! え、なんか残ってるかな!?」

「知らん! とっとと厨に行って聞け!」

「うわーん! 優しくなーーいっ!!」

「拗ねる暇があったらとっとと準備をせんか馬鹿者!!」

 兄さんの声を背中に転がるように布団から出て、身支度を整えると大急ぎで厨まで走っていく。

 今でも思うんだ。彼女を送ったのが俺なんかで良かったのかな、って。
 でも、最後に笑った彼女の顔を思い出すと、やっぱり誰にも譲りたくなかったな。

 本丸は新しい審神者を迎えて、新しい歴史を歩みだす。
 俺はまだまだそっちへは行けそうにないけれど、もし行くことができたなら、そのときは、言えなかったことを今度こそ言おうと思う。

”われら接唇くちづけする時に 月は頭上にあるでせう。”

引用 中原中也/湖上