事務所に戻ったオレは、ドアを閉めるのも忘れ飛び込む勢いで机に向かい、パソコンの電源を入れながら資料の束を引っ張り出す。チャーミーが「どうしたのさ!」と慌ててドアを閉めていたがお構いなしに、隣で未だ困惑している彼女に向けて質問をする。
「どんな人だった?性別は?」
「え、と」
チャーミーとエスピオが顔を見合わせて何か言いたそうにしたが、すぐに察したらしく様子を見守っていた。
「女の人、だった。けっこう年上」
「格好は?」
「上は……紺色のカーディガン。下はロングスカート、かな」
「何か持ってたか?」
「買い物かご……ううん、紙袋?どこかのお店の帰り、かな」
「他に誰か一緒にいたか?」
「い、いなかった。一人」
彼女から発せられる言葉一つ一つを、手近なメモ帳に書き記していく。解釈違いのないように出来るだけ彼女の表現をそのまま写した。
そして、これが最大の手掛かり。
「顔はどんなふうだった?」
彼女はなぜか俯きがちに、
「一瞬で、よくわからなかった……バスに乗るところだったし……」
「いや、十分だ」
彼女から聞いた情報をメモにまとめ、資料の束から近隣のバスの路線図を取り出した。
あまり洒落っ気のない格好で買い物帰りであるなら、観光や遊びの線は薄い。なおかつ1人でバスに乗るところというならば、おそらくは日用品の買い出し。とすると、その路線でもさほど遠くない場所に住んでいると推定できる。かかっても、せいぜい15、20分程度だろう。
これで、だいぶ絞り込める。あとはその人物に彼女のことを聞き出せれば――
「ベクターさん」
それは、今まで聞いたことがないほど、弱々しい声だった。
「私、やっぱりこのままでいいよ……」
机の端から、紙が落ちる。
「幽霊のままでいい。本当のこと、知らないでいいよ」
「何言ってんだ!あとちょっと、あとちょっとでお前さんのことが分かるんだぜ!」
このままでいいなんて、そんな訳がない。生きてるか死んでるも分からない、仮に生きてるのだとしても危険な状態に違いないはずだというのに、放っておくには危険過ぎる。
それでも彼女は、俯いて首を振った。
「でも、私、怖いんだよ。自分のこと知るの。もし酷い人間だったら?もしとっくに死んでたら?今このときの記憶だって、どうなるか分からないんだよ」
「そんなの、調べてみなきゃ分からねぇ。まだ希望は」
「分かったら、きっとベクターさんは私のこと嫌いになるし、私だってベクターさんのこと分からなくなるかもしれない。それなら……」
「ばか言え!決まったワケじゃねえんだ、可能性は最後まで考えねぇと……!」
「……どうせ……」
俯いていた彼女がキッと顔を上げ、
「どうせ!私の気持ちなんてわかんないよ!!」
彼女の渾身の叫び声が辺りにこだました。しんと静まり返り、オレも思わず言葉を失う。
気持ち。彼女の気持ち。
そうか、オレは真実を追うばかりで、コイツの心を考えてやれなかった。幽霊になって、記憶もなくして、声も届かないで。
一番不安なのは、彼女自身だというのに。
「……いま、」
その静寂を破ったのは、チャーミーだった。
「おんなのこの、こえが」
瞬間、オレはやっと気づいた。
一体『何が』こだましたのかを。
「私、」
短い声にはっとする。しかし、彼女は視線を合わせる間も無くどこかへ飛び去ってしまった。
「待っ――」
追いかけようと一歩踏み出した。なのに、足はそれ以上動かなかった。爪先がドアに向かったまま、氷のように張り付いている。
オレに彼女を追いかける理由があるのだろうか。真実にばかり気を取られ、本当に大事なことを蔑ろにしたオレに。それに、これは彼女から頼まれたことだ。その彼女がいいと言うのなら、もうオレにはなんの関わりもないんじゃないか。
ここで終わりにしても、誰も、何も、知りようがないことだ。
「……少なくとも、」
背中に投げかけられたのはエスピオの声。
「自分が知るベクターは、何かを途中で投げ出したりしない」
氷が溶けるのは一瞬だった。
振り返りもせずに事務所のドアを開けて足を動かした。彼女の行き先にアテがある訳ではなかったが、探す手立ては一つある。
彼女自身を探し当てることだ。
先程見た路線を思い出しながらバス停へ向かう。時刻は午後3時過ぎ。本数が減り出す前に、あの人物を探し出さなければ。
おそらく、彼女にもう時間はない。声まで聞こえるようになってしまった。
「……!!」
バス停にたどり着くと丁度バスが止まっており、そこに彼女が言っていた特徴の人物が降りて来ていた。
なんてタイミングだ、これを逃したら次はない。
「あっ!」
突然、背後で音がした。ちらと振り返ると、老婆が地面に座り込み、おろおろと杖を探している。通行人は忙しそうに通り過ぎていくだけで、手を貸す人はいそうにない。
バスが動き出す。例の人物が人混みに紛れる。辛うじて横顔がまだ見える、今追いかければ、まだ。
「……おい、ばあさん大丈夫か?」
しゃがみこんで杖を差し出し、老婆を立ち上がらせる。
「ありがとう、ごめんなさいね。杖が引っかかってしまって……」
「気をつけろよ。ここの通りは人も多いからな」
「ええ、本当にありがとう」
老婆が歩き出したのを見届けてから、オレはバス停に視線を向ける。とっくにバスは行ってしまい、あの人物の姿もない。
……これでよかったんだ。人はまた探せばいい。目の前で困っている人を放っておくのも気がかりだ。
今からでも追いかけてみれば、まだ間に合うかもしれない。そう思ったオレは再び歩き出そうと――
「あの」
ぱっと振り返り、ぎょっとした。年配の女性。紺色のカーディガン。ロングスカート。それに何より……その顔は。
「お優しいのですね」
「あ、いや、」
「急にごめんなさい、少し、お話しをさせてくれませんか?」
女性は柔らかく、どこか寂しそうに微笑んでいた。